イトーヨーカ堂は立地の良さに甘んじていたのか?

総合スーパー(GMS)の中で唯一駅前立地に集中しているのがイトーヨーカドー(店舗の標記 企業の場合はイトーヨーカ堂)であり、業績低迷はこの立地の良さに甘んじていたためであるから、立地を生かしていけば、他社よりも有利で回復しやすいというような記事をどこかで見かけた。
イトーヨーカ堂が立地に甘えていたかどうかわからないが、自社物件が少ないことを考えれば、立地を放置していたのは大家さんということになる。
また、駅前立地が果たして郊外立地と比べて有利かというと、よほど大掛かりな再開発で道路からすべてをつくり直すのであれば別だが、普通に考えれば必ずしも駅前立地だから有利だとは言えない。
イトーヨーカドーは2000年以降、店舗を南関東一都3県に全店舗の6割を集中させているが、なぜかその後に岡山に出店するというちぐはぐなことをやっている。
ザ・プライスに業態転換したのは、全て古くからある駅前立地の店舗であるが、問題は、一都3県の駅前立地だから、立地が良いということにはならないということである。
そもそも買い物難民が初めて言われたのは横浜市栄区の公田町団地であるし、イトーヨーカドーからザ・プライスに業態転換した五香店近くの常盤平団地は孤独死で注目された団地である。
つまり、関東圏の駅前立地であっても、ベッドダウンの行きつく姿は地方のそれと変わらない、もしくはもっと悲惨なのかもしれない。
最近発表になった閉店店舗を見ても、かつての大型店(もちろん駅前立地)や地方に後から出店した店舗である。
人口推計を見れば分かるが、①現在の人口規模に関係なく、都市によって年齢構成(≒人口ピラミッドの形)には10~20年の差が見られる。②現在、高齢化が進み、人口も減少している都市は、将来の老年人口増加率が小さい。③現在、老年人口比率が低く、人口が増加、あるいは人口減少が少ない都市は、将来老年人口の増加率が非常に高い。
要するに、現在、人口が減少し、高齢化が目立つ地域は年齢構成の変化が小さく、人口が増加、あるいは減少幅の小さい都市は年齢構成の変化率が高い。現状では都市のタイプによる年齢構成の違いが大きく見えるが、今後20~30年の間に収束し、多くの都市が似たような形(人口ピラミッド)になる。
ざっと大枠で見ると、我国の人口は、1950年代の9000万人から50年かけて12800万人になり、その後また50年かけて9000万人まで人口が減少する。前半の50年で都市タイプによる様々な違いが顕著になり、後半の50年で一定の形に収束していくような感じなのだと思う。
問題は、鉄道をベースに発展してきた都市の多くが、ターミナルかベッドタウンであり、サラリーマンが住むという意外何の産業も持たないベッドタウンが高齢化(定年退職後)すると、人の移動がなくなり、活力が著しく低下して八方ふさがりになることである。既にそのような危惧を口にする市長もいるように、「人口」をキーワードに状況を見ていけば容易に推測できることである。

タイムフリー、ロケーションフリー、セクションフリー、コストフリーが当り前の時代であることを考えれば、問題は「どこに立地するか」ではなく、「どのようなマーケットを対象にするのか」に移っている。
新商品や新業態など未だに「物」をベースにしか物事が理解できない人には、いつまで経っても理解できないかもしれないが、マーケットは物ではない。
マーケットは、消費者にとっての意味であり、それによって消費者の消費行動が変わらなければ、いつまで経っても既存マーケット内での新陳代謝、シェアの奪い合いにすぎない。新商品や新業態の危うさは、マーケットそのものが他へ移ったことに気づかず、いつまでも同じマーケットに留まれば、いずれ限界を迎える。
「イトーヨーカドー駅前立地論」なるものも、残念ながらマーケットが全く見えていないと言わざるを得ないのではないだろうか。
本質を見誤ると、いつまで経っても迷路から抜け出すことはできないが、キチンと見定めることさえできれば、意外とシンプルに次のステージに移行することができるだろう。要は見えるかどうかということになるだろう。

論理が違うと議論はかみ合わない

「論」は物事の道理を整理したもの、「理」は物事の道理、要するに「論理とは物事の道筋を整理したもの」だとすれば、かみ合わない議論の多くが、前提が違っていたり、「論」や「理」が違っていたりする。
最近では、3月3日の石原元都知事の記者会見だろう。
小池都知事は、あくまでも「ファクト(事実)」が知りたいと言い続けているのに対し、石原元都知事はファクト(事実)ではなく、自分の立場を言っている。
途中からあまりひどいのでテレビを見るのをやめてしまったが、一番分かっていないのは、たぶん質問に当たった記者達だろう。
質問と称して、自分の意見を言う、感情的に中傷する、石原元都知事を責める(別に石原元都知事を擁護するのではなく、記者達は質問することはできても、感情的に公の場で人を責める権利があるわけではないから、どこかに勘違いがある。単純に不思議である。)、…。
記者会見が限られた時間で行われることを考えれば、質問は順を追って事実を積み重ね、実際にどのようなことがあったのかを解明するように組み立てなければならない。あるいはキーになるピースを見つけるための質問が行われる必要があるが、おそらく、そのような仮説を持たずに会見の場に臨んでいるのだろう。
事実を積み重ね、構造やメカニズムを整理するには「質問術」が必要になる。質問の仕方一つで答えが変わり、必要な答えを積み重ねていくことで全体の構造やメカニズムが見えてくる。感情的に攻めれば、相手も感情的に対応するから、論理とは全く異なる世界に迷い込んでしまう。
ディベートなど論理を戦わせることは、少なくとも、物事を報道する立場にある記者にとっては最低限必要な素養のはずだが、残念なことにどうも記者会見を見ている限りでは、そのようには考えていないらしい。
多くの勘違いが週刊誌的には面白い状況をつくり出すが、これではいつまで経っても「ファクト(事実)」にはたどり着けない。どのような経緯によって、物事が起こっていったのかという最も重要なことが解明されるには多くの時間を要することだろう。

多くの場面で、論理の違いは問題を引き起こし、また問題解決を難しくする。
一見すると同じに見えることでも勘違いすると、いつまで経ってもゴールにたどり着くことができなくなる。
例えば、上位目的と下位目的のレベルを反対にすると、目的と手段が逆転してしまうし、基準を間違えてしまうと判断は正反対になる。
シンプルに論理を整理すれば単純なモノ・コトも、ひとたび論理を間違えれば、状況は錯綜し、複雑に絡んだ糸はほどけなくなり、迷路に迷い込む。
いずれ学校でも子供たちに問題解決について教える時代がやってくると思うが、問題が定義できないままに、いくら問題解決、問題解決と唱えてみても、何も生まれない。
何年やっても世界に通用しない英語に多くの時間と費用を割いているのと同じことがプログラミングをはじめ様々なところで起こってきても不思議はない。
DIAMOND onlineに「PDCAを問題解決手法と教える高校教科書の危うさ」(三谷宏治:K.I.T.虎ノ門大学院主任教授2017.03.02)という記事が出ていたが、知らない人が何も分からないまま(分かったつもりになって)進めると無知・間違いが拡散してしまう。
帰納法的に具体と抽象の両方を知ることのない人が、机上の知識という抽象の世界だけで組み立ててしまう危険性がここに凝縮しているような気がする。演繹法を否定するつもりはないが、演繹法しか知らない人達の危うさは認識する必要がある。

まずは何が問題か整理することから始める必要があるが、それにはキチンと問題を定義することが重要である。
問題を定義することなく、ただ感情に流されているだけでは、ただの主張や非難に過ぎず、議論=「議;意見を出して話し合う」「論;物事の道理」にはならない。
物事の道理はシンプルであるから、変に迷路に迷い込むことがないように「ものの見方・考え方」を整理することから始める必要がある。

 

サービスの生産性が上がらない理由⁉

ギリギリでもらった年賀状に慌てて郵便局へ行って年賀状を数枚買おうとしたら、大行列に30分近く並ばされてしまった。
「ハガキ数枚買うのに30分」という状況には笑うしかなかったが、これが我が国のサービス業の生産性が上がらない理由と考えれば、講演や原稿のネタにはなる。
自販機さえ置いてくれれば数秒で済むことだが、郵便局のスタッフは、みな一生懸命で対応している。
仕事柄、状況を観察すると、①いろいろな手続きで来ている人が同じ窓口に混在している(なぜ分けないのだろうか?)、②自販機など機械に置き換えれば済む内容も結構あるが、全て人手に頼っている(???…)、③せめて手続きの所要時間を考えてエキスプレスカウンター(スーパーのレジだと買上点数3点以下など時間のかからない人に対応)を設ければ、ここに並んでいる人達の総待ち時間は大きく改善されるはずだが….など改善点は素人でもすぐに見えてくる。

こんなことを正月早々経験するとも思わなかったが、なかなか経験することもないことだろう。
10年ほど前のデータだが、全国の渋滞による経済的な損失を国土交通省が年間12兆円と試算している。
そう考えると、こんな行列の損失は全国で年間いったいいくらあるのだろうか?そのうちお役所関係(民営化も含む)が、どのくらいを占めているのだろうか?
阿部首相が「生産性運動60周年記念パーティー(主催;日本生産性本部)」の席上で「日本再興戦略の中で、経済成長の切り札としてサービス産業の生産性向上を位置づけた」とし、サービス生産性革命の必要性を訴えた、というのに、これではいつまで経ってもサービスの生産性向上は無理なのかもしれない。

「みんな一生懸命やっている」のに生産性が上がらないのは、経営者の脳力の問題。
「みんな一生懸命やっているんだから…」が言い訳になるのは、日本的勘違い。トンチンカンな正論は多くのモノ・コトを狂わせてしまう。
たくさん楽して、なおかつ生産性を革命的に高める知恵が求められている。
難しく考えなくても生産性は簡単に上がる。
問題は何でも難しくしてしまう人がいることである。

売場の科学

◆売場を科学する

「売場は生きもの」であるから難しい。良くなるとドンドン良くなっていくし、崩れだすとドンドン悪くなる。だから面白い。
理由はいろいろと考えられるが、売場をつくっているのが「人」、利用する・買っているのも「人」だからだろう。
ただし、残念なことに、この面白さが分かる人、知っている人、楽しめる人がどんどん減っているように思えてならない。

本部でバイヤーが売場展開マニュアルをつくって売場に流しても、実際にどこまでやれるかは売場次第(知識・技術・経験などのレベル+モチベーション+総人時を含めた職場環境=要するにヤルベキことができるだけの人員・時間が確保できるか否か)だから、出来栄えも様々になる。
店としての販売力、競合状況などもあるので一概には言えないが、良い売場を創って、それにお客が反応すれば、業績は上がる。機械的な作業に終始すれば、殺伐とした売場になり、お客もそのような状況には素直に反応する。
セルフサービス、チェーンストアが我が国に生まれて半世紀以上も経つのに、未だにどうにもならないところが何とも言えない。
「人的(特に伝える人)」な運営に終始しているが、人を育ててない(現場だけでなく、仕組みをつくったり教育を行う側の人も)からレベルがマチマチになる。
実際に売場を経験してみれば、時系列管理とそれぞれのタイミングにおける商品構成がポイントであることは分かる。
売場表現(レイアウト、陳列・演出)や販売促進は時系列で変化する商品(の意味)を上手く表現・演出する手段であるし、それらを実現するために様々な売場作業が必要になる。
したがって、作業もスケジューリングも上位の目的ではなく、あくまでも上位にある様々な目的を達成するための一手段にしか過ぎないことになる。
これらを整理すると、➀期間売上・利益を最上位の目的として、⓶それを達成するための時系列(目標の細分化)での予算(ダラー=金額)、⓷その額を達成するための手段としてタイミングごとに適正な商品構成(Σ単価×数量=ユニットとダラー)、さらに⓸それらを目的とした売場表現と販売促進、そして⓹それらを目的としてのその手段としての作業・スケジューリングという体系が成り立つ。
ところが、実際に見てみると、これらの目的=手段の体系が上手くつながり、仕組みとして確立し、運用している企業、店舗はほとんどないと言ってもよい。
誕生して半世紀以上たつにもかかわらず、最も基本的な仕組み=システムもないままに、人手をカットし、教育も表面的にしか行わずに運営されていることになる。
ローコストオベーレーションとは名ばかりの人件費カットの結果、最後に残ったのは最低限必要な発注、補充、レジ精算だけになる。
これでよい結果が出れば不思議と言うしかないだろう。

よくあるケースが「発注」教育である。発注と言っても発注器具の操作や手続きの説明しかなく、どのような状況で、どのような商品を、いくつ持つ必要があって、だからどのようにして発注数量を算出すればよいのか、…という「発注量算出の基本的な考え方や具体的な場面と算出方法」については教えていないケースが圧倒的に多い。時間や教える側のスキルの問題で教えられないといった方が正しいかもしれない。
売場づくりや商品の陳列・演出方法についても同様である。
商品の特性、時期によっての商品の持つ意味に応じた展開方法、見せ方、演出方法などが理解できなければ、どんなに売場に商品を並べても、それは商品ではなく、ただの物でしかない。このように本質的なことが理解できなければ、いつまで経っても物売りからは抜け出せない。
よく事例として取り上げるのが卓上ガスコンロとボンベである。
冬は鍋用、春は花見、ゴールデンウィークや夏のレジャーシーズンにはバーベキュー、そして地震など万が一の時に備えては非常用というように、その時々で意味を変える。同じ商品でもその時々で意味が変わるから商品構成、陳列や演出、包装形態、販売価格帯など、様々な要素をその時々に合わせて変化させる必要がある。
ただPOPに商品名と価格を表示し、売場に置いているだけでは、その時=場面における商品の本当の意味が伝わらない。
お客が商品を買うには意味がある。だから同じ商品が同じ価格で売っていても、その時々で売れ方が変わる。
売場の科学は奥が深い。
その奥の深さを理解し、追求することは非常に重要であるはずだが、それが単に時代のブームでしか起こらなかったことが小売業界が上手く進化できなかった大きな理由なのだろう。
大手企業のカリスマ経営者の思い付きが長年かかっても「科学」になれなかったことがどこか象徴しているような気がしてならない。

結局は、相乗積、交叉比率、OTB(open to Buy)、そして52週と商品構成(クラシフィケーションマトリックス)。基本は限られている。

このホームページには、コラムという形で多くの原稿を載せている。その中でもPV(ページヴュー)が集中するのが相乗積、交叉比率、そしてOTB(open to Buy)である。
長年、このような業界で仕事をしてきて思うのは、何と雑音が多く、本質を外すことの多い業界であるのかということである。
いろいろと目新しいモノがアメリカから紹介され、マスコミはそれをあたかも素晴らしいモノであるかのごとく取り上げる。しかし、この何十年の小売業の歴史を見ても、コンサルタントと称する人達がアメリカから持ち込み、マスコミが騒いで企業が取り組んだテーマで、まともに完成し、残っているモノは一つもないと言ってよいだろう。
ワークスケジュールと称して作業計画もどきが入ってきた時も、作業が標準化されておらず、負荷もコントロールされていない状況で、アメリカでは….とやって大騒ぎしたが、結局成し遂げた企業はなかった。
製造業におけるスケジューリングの基本と照らし合わせれば、おかしいことはすぐに分かるのだが、そうはならないところが小売業の小売業たるゆえんなのかもしれない。
ワークサンプリングという標準時間設定に際して余裕率を算定するための稼働分析手法で要員計画をやりたいという企業に対して、それではできないというプレゼンをやりに大阪まで行ったこともあるが、その後その企画は白紙撤回されたから、その程度のものでしかなかったということだろう。3つの団体に声を掛けてあったというが、一番初めのプレゼンで白紙撤回になったから、まだ良かったと言うべきだろう。
ミニキャリーとコンテナシステムも流行ったが、何段にもコンテナを重ねれば必ず取り置きが発生するし、少ない数では腰を曲げて押さなければならず、挙句の果てに中が見えないから不都合が多い。
ある企業で青果のバックヤード改善をやった時には、真っ先にミニキャリーとコンテナを排除し、大型の多段トレーに全て置き換えた。加工作業、ストック、品出しの全てが多段トレーで済むし、トレー1枚にコンテナ1つ分が入るから多段トレーは数台もあれば済む。使わない時にはトレーを重ねておけばよい空コンテナのようにかさばることもない。
バックヤードのスペースを広く使えるから、生産性も大きく改善し、人件費1万円当りの粗利高は4万円超まではね上がった。
メーカーが取り組んでいたIE(Industrial Engineering)の初歩的な考え方で簡単に解決する問題である。
「開店時100%品揃え」といって騒いだ時も、早出残業し、朝早くから刺身のお造りをたくさん並べて鮮度を落していたが、イトーヨーカ堂が「売れる時に売れる商品を売れるだけ品揃えするのか100%」と言っただけで終わってしまった。
一時のブームで終わるようなモノの多くは、概念だけで結局は実践では役に立たない、使えないモノでしかないから、誰かが「王様は裸だ」と言ってしまえば、そ個で終わってしまう。
日本にセルフサービス、チェーンストアという形態が紹介されてから60年以上が経つ。商品を仕入れて在庫を持ち、店舗に並べて販売するという小売の本質は変わっていないから、その本質をつかめば普遍的な理論と技術、仕組みが確立していてもおかしくはない。
様々な分野でITが当たり前になっても、デジタルで対応するのは表層だけで、小売というものの本質は何ら変わっていない。(ただし実店舗以外は多くの点で違ってきているが….)
実際にデジタルマーケティングなどの情報収集のために様々なセミナーや展示会などに顔を出しても、進んでいるのはデジタル技術だけであり、対象とする基本的な中身については「如何に顧客に注目させるか」「ストレスなく買い物をさせるか」など昔から大きく変わってはいない。
どんなに最先端を行っているように見えても、はじめは「技術」だけ進んで、その技術の応用しやすい分野で普及していくが、やっていることは試行錯誤で、どこまで本当に使えるのかはやっている本人でさえ、よく分かっていないというケースも多い。
そのように考えるとどんなに技術が発展したとしても「相乗積、交叉比率、そしてOTB(open to Buy)」など最も基本的なことが理解できていないと地に足の着いたことができないということなのだろう。
デジタルの時代だから、このような計算はブラックボックス化してしまい、なかなか触れることがなくなる可能性も高いが、このような時代であるからこそ、基本的な理屈をキチンと身につけることが重要になる。
どんどん機械化されて人的要素が関与するところが減ってくれば、ポイントとして押さえる必要のあるところは、非常に限られてくる。そこさえ押さえてしまえばあとは単純な世界である。
アマゾンが商品・サイトと押さえた後、物流を押さえにかかったことを見れば大枠で向かう方向は想像がつく。
それと比べると、実店舗の向かう方向は全く見えてこないから、実店舗を数多く展開する企業にとって本質、ポイントは何処にあるのか、未だ試行錯誤の状況にあるということなのだろう。
Amazon Goのような店舗ができてくると、買い物からレジというモノ(レジスター、人員、工程)が全て消え去ってしまう。一方、無店舗販売側からのアプローチであるにもかかわらず、店舗、売場、現品商品、什器と棚割りというモノは残っているから、実店舗を展開する企業がどのように対応するのかも見ものである。
基本として最後に何が残るのか、楽しみである。

 

自動運転で地図の意味、要求される機能、要件が変わった

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ロボット化で装置工業化する社会、産業

Amazon Goが話題になっているが、動画を見ると何年か前にIBMがメトロと実験したフューチャーストアをイメージさせる。この時は非接触型技術を使って商品価格を積算し、店を出る時に事前に登録したクレジットカードで自動的にチェックアウトを完了していた。
レジ精算という工程が買い物から削除された点が画期的だったが、クレジットカードの読み取り、商品価格を読み取るショッピングカートが必要だった。
Amazon Goでは認証技術とAI技術を使って、全てがフリーになっている。
顔と一緒にピースマークをした写真をSNSにアップすると3m離れて撮った写真でも指紋が読み取れるから危険という警告が盛んに行われているように、認証技術の発展にAI技術が加わってこのようなシステムを可能にしたということらしい。
お客は店に来たら好きな商品を手に取り、そのまま店から出ていけば買物は完了する。棚からとった商品も元に戻せば買物金額からマイナスされるというから、自由気ままに店内を動き回り、好きな商品を手に取って、必要なものを持ってそのまま店を出ることができる。
事前にクレジットカードを登録しておく必要はあるが、あとは勝手気まま、自由に行動できるから、「買い物をする」という概念、行為そのものが大きく変わるだろう。
慣れるまでは多少違和感があるだろうが、お客側、店舗側双方にとってのメリットははかり知れない。
お客はレジに並ぶ必要がないから非常に大きな時間の節約、ストレスからの会報が期待できる。一方、店側は設備投資の問題は残るが、レジと人員が不要になり、現金を扱う必要がないためにセキュリティの問題が大きく改善される。
何よりも個別精算がないことで買い物の感覚が薄れるから使う金額が膨らむ可能性もある。
すでにアマゾンは、Amazon Dash Buttonによって日常生活のシーンの中に入り込んで特定商品の注文を受けることを始めている

クラシフィケーションという考え方 その本質

1.類似の特性のものをまとめることの本質と効用
(1)類似する『もの』をまとめる
我々が何気なく過している毎日の生活も,よく観ると実にさまざまな工夫がなされている。例えば,洗面所では歯磨き,歯ブラシなど毎日使う使用頻度の高いものを一箇所にまとめ,取り出しやすく,戻しやすいよう置き方にも工夫している。
ハンカチ,靴下,腕時計,財布,携帯電話など毎日使う小物類は,まとめて取り出しやすい高さに置けば短時間で準備ができるし,忘れることの予防にもなる。
使用場面・用途・目的などの類似性によって『ものをまとめる』ことは,昔から生活の知恵として日常的に行われている。
同様に仕事の場面でも,使用頻度,目的,進捗状況,納期,手続きなどの類似性に着目し,『ひとつのまとまり単位』として管理することは一般的によく行われている。
改めて意識することは少ないが,『一定の秩序』に従って類似するものをまとめることは,我々の思考や行動にとってとても便利である。
物事の仕組みや法則性を見出すための科学的方法として『分類概念の適用』『グルーピングとモデル化』という手順が非常に重要な意味を持つことは、さまざまな形で指摘されている通りである。
種々雑多なものが混在し,相互に干渉することで一見無秩序で分かりにくく思えるものも,適切な分類概念によって上手いグルーピングができれば,内包する秩序や仕組み,メカニズムなどの他,表面からは見えにくい法則性を見出すことも容易になる。
日常的な生活,仕事の処理,製品や製造工程の設計・改善,情報システムの設計・改善,それらに関するマネジメント,さまざまな物事に関する認識・思考,・・・総て同様である。
類似するものをまとめること=分類・層別の効用は,物事を一定の秩序に基いてスクリーニングし,体系的に整理して見やすくすることである。分類・層別することによって得られるメリットは計り知れない。
(2)類似するものをまとめたGT(Group Technology;グループ・テクノロジー)
生産分野では,1963年以降,多品種少量生産・個別生産などの生産性向上,コストダウンを目的として 西ドイツ アーヘン工業大学のH.オーピッツ教授らによる『部品グループ加工』に関する実践的研究が行われている。
少品種大量生産の時代から多品種少量生産の時代に変わり,従来の生産方式(生産のやり方に関する思想,具体化する上での考え方,具体的方法)に代わる新たな生産方式開発の必要性が高まっていた。
少品種大量生産を支えた3S(①Simplification;単純化,②Standardization;標準化,③Specialization;専門化)は,T型フォードの生産に代表される流れ作業方式のベースにある思想,考え方,手法である。100年近く経つ現在も,マネジメントをはじめ,さまざまな分野に深く影響を与え続けるほど普遍性の高い思想でもある。(もっとも時代は大きく変わり,根底にあるこの思想から抜け出せずに喘いでいるケースも多々見られるが……)。
①製造工程を細かく分けて一つ一つの工程を単純化し,単純化した工程に対して②最もよいと考えられる方法を標準として採用する。誰でもできるほどに単純化したそれぞれの工程に③作業者を専門的に配置することで習熟性を高め,全体の効率化を図る。品種を絞って生産量を集中させ,専用工程を採用することで高い効果を発揮する。
一方,多品種少量生産や個別生産では,専用工程を採用する程の生産量はない。
品種によって製造工程・加工方法が異なるため,ラインを組み替える段取り替えが頻繁に発生する。原材料・部品の種類は増え,発注,在庫管理,工程管理などあらゆる面で少品種大量生産とは比べものにならないほどの手間が掛かる。しかも生産量が少ないために管理コストの占める割合が増大し,利益を圧迫する。
H.オーピッツ教授らは,製品を品種毎に個別管理するのを止め,複数の品種をまとめて製品を群単位で捉えるようにした。製品群の加工ロットは,加工工程,加工方法,素材,部品形状など類似する特性によってフレキシブルに編成し直し,部分的に『擬似 少品種大量生産』に変換することで3Sのメリットが得られるようにした。
このやり方は,煩雑で効率が悪いとされていた多品種少量生産・個別生産に対して有効な考え方,手法として数多くの実績を上げ,研究成果はGT(Group Technologyグループ・テクノロジー)として広く一般に知られるようなになった。
その後,GTはヨーロッパ中心に普及し,我国でも数多くの企業が導入している。
しかし,残念なことにGTに関する考え方,手法の普及は製造分野だけにとどまり,それ以上の発展,広がりを見るには至っていない。
(3)現在のように煩雑な時代にこそ必要な『類似するものをまとめる=分類・層別』
物事を構成する要素,影響を与える要因は,製造業が多品種少量生産へ移行した時代とは比べものにならないほど増え,さらにIT化によって情報量は級数的に増え続けている。我々を取り巻く環境,対象として捉えなければならない状況は,はるかに複雑化している。
このような環境下で正しい認識,正しい判断をするためには,増え続ける情報,表層で複雑に絡み合う要素をそのままの形で見るのではなく,類似する要素をまとめる=分類・層別することで体系的に整理し,その裏に隠れた本質を的確に読み取る必要がある。
例えば,『ある物事に関して何らかの可能性を探りたい』のであれば,物事を構成する個々の要素を,目的である『可能性』に対してプラス(直接的・間接的),マイナス(直接的・間接的),中立,その他(条件によって変動,あるいは無関係)というように分類・層別すると分かりやすい。
分類・層別することの効用は次のように整理できる。
①目的に応じて特性の似たまとまり単位をつくることで,個別要素に惑わされることなく,プラス,マイナス,中立,その他のウエイトがどうなっているかなど,マクロ的な視点から物事を観ることができる。構成要素を分類・層別するために一度個別に識別する必要はあるが,特性の似たまとまり単位に集約することで,全体的な状況・本質を見極める作業効率が飛躍的に高まる。
②『マイナス要素をどうにかしたい』といった場合では,対策を打ちやすくするために原因別,あるいはコントロール可能/不能というようにまとめ直すことで,まとまり単位に対して共通する管理方式,対応策などを当てはめることが可能となる。
個別要素毎に対応する煩雑さから開放され,効率は飛躍的に高まる。
③煩雑な状況下では,機械的に総て画一か,効率を無視して個別対応という二者択一の対応になりがちである。類似する特性のまとまり単位をつくることで,それぞれのまとまり単位の性質に応じて的確,かつ効果的な対応が可能となる。

2.クラシフィケーション(Classification;有形・無形のものが持つさまざまな特性に着目して適切なグルーピングを探し出し,物事の状況・本質を的確に読み取るための分類・層別に関する考え方・方法)
GTでは,製造工程に『擬似 少品種大量生産』をつくり出すことを目的として,さまざまな特性の類似性に着目してグルーピングをした。
一方,クラシフィケーション(Classification)は,一見複雑で無秩序に見える物事の全体的状況,内包する秩序,仕組み,法則性,メカニズム,問題点などを見出すことを目的として,さまざまなグルーピング=分類・層別を行う。
『ものの特性に着目して類似するものをまとめる』という点で両者は共通するが,その目的は基本的に異なる。
GTが工場内の製品を対象とするのに対し,クラシフィケーションは有形,無形の『もの』総てを対象とする。目的は,『秩序,仕組み,法則性,メカニズム,問題点などを見出すこと』であるから,例えGTと同じ製品を対象とした場合でも検討する特性の範囲は異なる。有形なものでは素材,二次加工品,製品など形あるさまざまな物を対象とするが,グルーピングのために用いる特性は,素材の調達エリア・調達方法・調達の容易性から製品の使用場面・使用方法・購買対象・購買動機・リサイクルの仕方など多岐に渡る。
目的に応じて有効と考えられるあらゆる特性についてさまざまな角度から検討する。
(1)クラシフィケーションの考え方と適用の手順
物事を的確に認識することが,総ての原点である。
クラシフィケーションでは,まとまり単位が持つ秩序,仕組み,法則性,メカニズム,問題点などを見出すために,次のような手順を採る。
①対象とする物事が持つ特性の整理と理解
物事の本質を理解するためには,表面的な理解ではなく,物事を構成するさまざまな要素が持つ特性に対して理解することからはじめる必要がある。
図表-1 は,『有形なもの(例;製品)』と『無形なもの(例;業務)』を対象として通常考え得る特性を整理したものである。特性は,図表‐1に示すように実にさまざまであるが,目的に対して総ての特性が有効であるわけではない。通常であれば2~3の特性が重要な意味を持ち,他の特性は目的に対してほとんど意味を持たない。
したがって,特性を整理すると同時にそれぞれの特性がどのような目的に対して重要な特性であるかということも同時に理解する必要がある。
②目的と特性
多くの場合,『目的』は煩雑で混沌とした状況に対して適切な対応策を策定することである。そのためには,物事の持つさまざまな側面を特性によってスクリーニングし,ノイズを排除した状態でその特徴・性質を見出していく必要がある。
重要なことは,目的とスクリーニングに用いる特性との関連付けである。
例えば,製品の場合,物理的特性として素材・成分,構造・機構などの特性がある。
素材は,製品の強度や加工方法を決める上で重要であり,構造は,加工工程や製品の機能・性能を決める上で重要な特性である。しかし,設計や製造段階で重要となるこれらの特性も,使用段階では必ずしも重要な特性とは限らない。むしろ,使い勝手や耐久性・保守性が重要なケースも考えられる。
また,業務では,業務設計などマクロで見る場合には業務目的・業務機能が重要な特性になるが,日常の業務遂行では,『実施』に直接関係する手続き上の特性,人的特性,時間的特性などが重要になる。
このようにさまざまな特性も,目的によって重要度が変わり,場合によっては全く意味をなさないケースもある。
したがって,クラシフィケーションでは目的と特性の関連付けは欠かせない。
③目的と特性の関連付け
クラシフィケーションに限らず,GTでも同様であるが,最も難しいのが,目的に応じて特性を特定することである。
同じ目的であっても,企業や職場の状況によって全く同じ特性を使えないケースは多い。例え使えたとしても,個別の構成要素を識別する際に固有の状況や制約条件などにより,修正する必要がある。
目的と特性の関係を抽象化・一般化して表現することは可能であるが,上記のような理由で具体的な適用にはほとんど意味をなさない。
したがって,実際に適用する際には,仮設を立て,さまざまなケースについて個々にシミュレーションで確認しながら進める必要がある。
(2)クラシフィケーションによるものの見方
クラシフィケーションの訓練には,『有形なもの』を対象にした方が分かりやすい。
図表-2は,製品ライフサイクルによって重要な特性が変化していく様子を表したものである。重要なことは,『生産』では『物としての製品・製品の基本機能に関する特性』が中心であるが,その前後の段階では『中間的な特性』『製品の意味・価値など二次機能に関する特性』のウエイトが高まっている点である。全く同じ製品でありながら,ライフサイクルの各段階で捉え方が異なり,製品の『意味・価値』が変わることを表している。
このように,物事には有形・無形を問わず『絶対』いうことがなく,視点を変えることで意味・価値は変わる。一つの限定された視点だけで物事を観ていては見えないことも,さまざまな角度から視点を変えて観ることで物事の持つ別な側面を見出すことができる。
クラシフィケーションは,そのために『ものの持つさまざまな特性』に着目している。
基本は,物事をただ漠然と捉えるのではなく,さまざまな特性に着目して分類・層別し,限られた視点から見直してみることである。
おそらく,漠然と捉えていた時とは全く違った側面が観えてくるはずである。
このようにして,それまで見えなかった秩序,仕組み,法則性,メカニズム,問題点などが見えてくれば対応は比較的容易である。
物事を特性という視点から見る訓練をすることで,それまで機械的・画一的に処理されていたことの乱暴さや一々個別に対応していたムダも見えてくるだろう。
クラシフィケーションを用いることで,物事の本質が明確に見えてくるはずである。

情報系総合大学が必要! 義務教育をパスする権利も必要⁉

◆情報系総合大学が必要
いま、情報工学科でマーケティングを教えている。実業の世界ではAIを含めたデジタル、IT関連の進化がすさまじい勢いで起こっており、狭い世界に閉じこもっていたのでは、すぐに浦島太郎状態になってしまう。
進化は、専門分野の分化と再統合を繰り返しており、中途半端な知識、教育ではどう考えてもついていくことは難しい。
そのような状況を前提として改めて大学を考えると、すでに情報工学は一つの学科という位置づけで存在するものではなくなっているように思えてならない。
一般教養も、大学に入ってまで英語を勉強するなどということではなく、英語は空気のような存在で当たり前、改めて大学に入ってから勉強するものではないという位置づけにならないと次のステージには進めない。
情報、デジタル系の総合大学ができ、その中にさまざまなジャンルの学部、学科が存在するというようにならないと対応できないのだろう。
現在の情報工学科でやっているようなカリキュラムは一般教養という位置づけで、全ての学科、学部に共通して身につけるような状況に変わると考えた方が分かりやすい。
たくさんある全ての大学がそうである必要はないが、少なくとも複数の大学がそのように変わっていかないと、時代の進化についていける人材が育たない。
◆大学までの12年間をどう変えるのか
中高一貫が盛んに言われていたが、最近は高大一貫が言われるように変わってきた。
下から積み上げれば中高なのかもしれないが、大学から逆算すると高大になる。そして、必然的にその下の中小となっていくことは自然なことである。
言い換えれば、積み上げ方式のいまの義務教育を大学から高校、中学、小学というようにゴールから逆算して整理していくと、優先順位が明確になる。
積み上げ式である限り、どんなに積み残しがあっても時間だけが過ぎてしまえば取り返しがつかなくなる。一方、ゴールから落し込んでいけば無駄なモノ・コトも必要なモノ・コトも明確になる。
一般教養も時代とともに変わるから、何をもって一般教養とするのか、再定義しないとズルズル行ってしまう。
あちこちで改革、改革と言われるが、ゆとり教育が間違いだったからといって、授業日数、時間を増やしても、中身、思想が変わっていなければ、ただ無駄な知識、それを詰め込む時間が増えるだけで本質は何も変わらない。
何よりも「勉強とは何か」「何を目的として勉強するのか」「教育・人材育成とは何か」という最も基本的なことが明確にならないまま、ただ知識を詰め込むことを強化しても何も変わることはない。
知識、情報はインターネット上に溢れており、いくらでも手に入れることができる。それを前提として学校では何を教えるのか、教育するのか。答えを持たないまま「教育」の名を借りて子供を拘束することは避けるべきだろう。

手乗り錦鯉を創ろう

泳ぐ宝石、錦鯉は海外で人気があり、37億円が輸出されている。実に9割が輸出というから、国内に流通する魚は一握りでしかない。実際に身の回りを見ても、ペット・ショップはあるが錦鯉を売る店はほとんどない。また、大きな錦鯉が泳いでいる池を探しても一部の料亭や公園など限られているから、日常的に眼にすることもほとんどなくなっている。
住宅事情もあるが、残念ながら昔のように金魚屋さんで金魚や鯉を買ってきて、自宅の庭にある池で飼うという身近な存在ではなくなってしまった。
流通ルートも店からヤフオクへと移り、すっかり表舞台から消えているから、余計に一般の人からは見えない存在になっている。産地も海外から買付けに来るバイヤーに顔が向いているから、改めて国内のマーケットを開拓するという発想にはならないのだろう。しかし、美しく、一匹一匹の色柄が違い、しかも長生きして、人に慣れて手から餌を食べるという特性を考えれば、ペットとして脚光を浴びてもおかしくない。様々なマーケット環境を考えても大きな可能性を秘めているペットと考えてよいだろう。
最近では、「アートアクアリウム」という形で金魚が注目されるようになっているが、いくら注目されても日常生活の中に金魚を飼うという習慣が浸透するわけではない。
江戸川区の金魚祭りに行くと、多くの家族連れが金魚すくいに興じており、金魚を飼い求める人も多い。産地という地域特性もあるのだろうが、金魚が「特別なモノとして見る対象」ではなく、生活の中の一部としてしっかりと居場所を確保しているように思える。
文化の違いと言ってもよいのだろう。
ポイントは、日本の住宅事情でも十分飼えるような条件を揃えること、表舞台で「錦鯉は良いものだ」と機会あるたびに数多く露出することだろう。
そのためには、錦鯉の小型化は欠かせない。池で飼う魚から、水槽でも飼えるというように範囲を広げても、錦鯉のポジションがただ鑑賞するだけでは限界がある。
犬が小型犬中心に室内飼育が主流となり、日常生活の中で触れ合う機会、時間が増えたことからコンパニオン化していったように、錦鯉も餌を手からもらって食べながら、人との距離を近づけることができれば、従来の観賞魚というポジションとはまた違ったポジションで受け入れられることも可能である。
多くの商品がブレークする、一度去ったブームが再燃する時には必ずポジションが変わっている。かつての園芸ブームはマニアの趣味からグリーンインテリアとして一般に広く普及し、さらにクラフト的なイングリッシュガーデニングとなって何度も蘇っている。アクアリウムブームもインテリア水槽や水草ができたことで、従来の品種改良や品評会という一部のマニアのものから、リビングのインテリアに意味を変え、多くの人に受け入れられた。
錦鯉も同じである。鑑賞という意味、ポジションから、もっと人との距離を縮めて生活空間に入り込んだ存在になれば、再び文化として多くの人に受け入れられる可能性もある。
現在の状況を考えると、日本全体が高齢化し、しかも単独世帯が増えたことで、一人で生活する人が増えている。しかも地縁、血縁も疎遠になっていることから、犬・猫などのペットが家族として重要な位置づけになっている。集合住宅でも飼いやすいということから爬虫類を買う若い女性も増えている。ただし、動物愛護法改正の関係から高齢者が改めて10年以上生きる犬・猫などを飼い始めるにはハードルが高くなっている。
そのような環境変化を含めて、動物ではなく人工知能に相手を求める傾向も見られるようになっており、ロボット掃除機や電子レンジなど言葉で反応する機械に名前を付けて会話をする独り暮らしの高齢者も増えているという。
このような現在の環境与件を考えると、心の拠り所となるような話し相手や世話をする対象を求める傾向は益々強まっていくだろう。まして高齢者の一人暮らしの多くは女性であるからなおさらである。
ペットを飼い、世話をすることが認知症予防に良いことも分かっているから、多くの点で意味のある方法ということになる。
錦鯉は、個体の識別ができ、色・柄も美しく、人に慣れるというペットとしての多くの特徴を備えている。YouTubeを見れば犬・猫や言葉をしゃべるインコなど飼い主が多くの人に見てもらい、自慢したい動画が溢れている。同様に数は少ないが飼い主の手からエサをもらい、手のひらに載ってくる金魚や錦鯉どの動画もアップされている。
もし、錦鯉が「手乗り錦鯉」というようなペットとしてのポジションを確立することができれば、従来の錦鯉とは異なるもう一つ別のマーケットを確立する可能性は高い。それが実現すれば、日本の新しい文化を生み出す、あるいは回復させると言うこともできるだろう。それだけの可能性を秘めたテーマだと考えている。