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進化の法則を理解しないと迷路に迷い込む‼️

◆製造業の進化の仕方
生物だけでなく、様々なモノ・コトについて進化のプロセスを見ると、一定の法則に従っていることが分かる。
例えば、製造業の進化プロセスを見ると、人間の進化のプロセスを象徴するような進化の仕方をしている。
① 道具・工具の利用;手の延長としての道具・工具は、作用点・保持部の形状、構造、サイズ、素材などの進化によって、作業性、出来栄えなどを飛躍的に高めることができた。
② 治具の利用;測定、位置決め、調整などに用いる治具の開発は、道具・工具とはまた違った意味で作業精度の向上、作業工数の低減を実現した。
③ 負荷の軽減;浮力、コロ、カウンターウエイトなどを利用することで負荷を軽減し、より少ない力で目的物を取扱うことを可能にした。負荷の軽減は、実質的に能力の増加と同じ意味を持つから重要な視点である。
④ 力のコントロール;テコ、滑車、歯車など力のモーメントを利用することで、力の増幅・減衰を可能にし、さらに方向の変更をも可能にした。目的に応じて力をコントロールし、さまざまな形で使えるようにしたことで、できる仕事の範囲が大幅に広がった。
⑤ エネルギー活用、機械化;位置・運動・熱・電気・化学・光など各種エネルギー活用による機械化は、人や馬などの生物的エネルギーとは比較にならないほどの持続性と量的増大、そしてエネルギーの蓄積を可能にした。
⑥ 自動化、ロボット化;センサー、制御、アタッチメント、コンピュータ、プログラミング、人工知能などを統合することで実現した自動化、ロボット化によって、人間が直接関与せずに、マネジメント機能までを包括した製造のシステム的運用を可能にした。
今後、AIの進化、AIを搭載した人型ロボットの進化など、どこまで進んでいくのか分からないが、一定の法則に従って進化してきていることは確かだろう。
また、進化のプロセスは、このようなハード面の進化ばかりでなく、知識・技術・ノウハウ、マネジメント、システム、教育、運用組織、プログラミングなどソフト面での進化も重要な役割を果たしている。
① フロントヤード(製造に直接的に関与するソフト); 運営組織、業務処理・業務管理システム、工程管理・負荷計画・スケジューリング、作業・動作方法、職場編成、作業管理システム、道具・工具・ジグ、機械・設備類、教育(OJT)、IT技術、…など、現場における業務遂行を直接的に支援・マネジメントする経験・知識・技術・ノウハウなどにより、製造のレベルは進化、向上している。
② バックヤード(製造に間接的に関与するソフト);経営組織、研究開発、コンピュータ・情報システム、マネジメント、各種システム、IT、教育・トレーニングプログラム(OJT、Off JT)、…など、間接的に品質や生産性などの維持、向上を保証することで製造のレベルは支えられ、進化することが可能になった
…..などである。
ハード面とソフト面の進化は、必ずしも連動して同時に起こっているわけではないが、長い進化の歴史の中では、試行錯誤や偶発的な発見、計画的な開発などさまざまな形が混在しながら、結果として相互に刺激し合い、補完するようにして起こっている。
◆先進国と新興国の進化の仕方
20世紀が「物の充足の時代」だとすれば、21世紀はデジタル化とネットワーク化によって「物、場所、時間から解放された情報化時代」、しかも「グローバル化した情報化時代」ということができる。
ポイントは以下の2点である。
①デジタル化によって物(媒体)と機能が分離したことで、物に関する制約から解放され、同時にネットワーク化によって時間と場所に関係なく、いつでも自由にデジタル情報のやり取りが可能になった。タイムフリー(時間)、ロケーションフリー(場所)、セクションフリー(分野)、コストフリー(費用)など、画期的とも言える数多くのメリットを得たことになる。
②物(媒体)と機能が分離したことで、物を「つくり」「在庫し」「運び」「売る」ことが必要なくなった。物をつくるための設備、配送のための物流センター、トラック、販売するための店、商品在庫、…等々である。
「物」中心の20世紀型産業構造にとって最も基本的な要素である「物」と物に関わるさまざまな設備、場所、在庫、手間、人手、コスト、それらに対するマネジメントなど、多くのものから解放され、全く次元の異なる世界に入ったことになる。

先進国と新興国では物の充足と情報化という進化の仕方がまるで逆である。
筆者は、逆というよりは、先進国が経験した商品(物)の充足・進化過程など先進国が経験した物の時代で得た成果だけを新興国に移植する形で、いきなり完成度の高いデジタルとネットワーク環境を、しかも低価格で提供したと考えている。
それは先進国が新興国に対し、生産基地としての近代化を求め、提供したものであって、歴史的に見ればいつの時代も同様のことが繰り返されている。大きな違いがあるとすれば、これまでは物という同軸上で起こっていたことが、今回は物からデジタル・ネットワーク・情報という異質なものへ移行するタイミングで起こっているという点である。
物の時代を長年経験し、その枠組み・秩序の中でしか物事を発想してこなかった場合と、いきなりゼロの状態からデジタルとネットワークの世界に入る違いは大きい。
例えば、いろいろと工夫をし、長年技術を磨いてコツコツと物づくりをしてきた人が、全く同じものを3Dスキャナーで計測し、3Dプリンターで作る様子を見たら、どのようなリアクションを取ることができるだろうか。その状況を理解し、納得するまでには多くの時間を要することだろう。しかし、この変化に適応できなければ、そのスピード、量、コストに圧倒され、一瞬にして飲みこまれてしまう。
日本の製造業にありがちな「良い商品さえつくっていれば….」という考え方は、物に帰属する基本機能の性能を高めたり、二次機能を付加したり、というように物をベースに置いた物時代の発想の延長でしかない。
デジタルカメラがスマートフォンに押されて売れなくなったから高性能な機種、ミラーレスへとシフトする…、液晶テレビの巻き返しにより4Kテレビを…という発想も同様である。
基本機能の性能アップは「使い勝手」「利便性」などの二次機能、ブランドなど物から離れて独自の意味を持ちだした三次機能とは本質的に異なる。マーケットの受け止め方次第では、性能を高めることは逆にマーケットを狭めることにもなりかねない。
マーケットのニーズが、高価格でも高性能な商品を求めてるのか、一定の性能・利便性さえ満たせば低価格の方がよいとするのか、あるいはアップルのように個々の製品だけではなく、ソフト、全体システム、ブランドなどトータルな三次機能=ライフスタイルやカルチャーの価値を高めることを求めているのか、…。
また、マーケットは先進国を狙うのか/新興国を狙うのか、ターゲットはイノベーター(革新者)か/アーリーマジョリティ(前期追随者)か/レイトマジョリティ(後期追随者)なのか、これから普及する新しい商品を使うのか/ある程度普及した商品の買い替え需要を喚起するのか、一般消費者を狙うのか、初級者・中級者・上級者のどこを狙うのか、…。
そのような意味では、先進国と新興国という全く異なる進化過程、異なるニーズを持つマーケット、その中のさまざまなセグメントに対して、どのようなポジションをとり、どのようなターゲットを、どのように攻略しようとするのか、冷静に状況を整理しないと戦略を見誤ることになる。それによって競争の意味自体が大きく変わる。
進化の方向を見れば、物の時代からデジタル化・ネットワーク化・情報化と進んだ現在は、デジタル化されたトータルシステムへと向かう過渡期にあると考えられる。
新興国のパワー、ボリューム、スピード、価格に圧倒されている現状に対し、同じ土俵で巻き返しを図ろうとするのか、それとも次のステージへ土俵を移し、次世代技術で優位な競争をしかけるのか、いずれにせよ、大きなマーケットでリードしようとすれば、物づくり以上にマーケット戦略が重要になる。
特に三次機能が重要な意味を持ちだした時代ということを考えれば、基本機能の性能アップ、二次機能の付加に活路を見出そうとする手法は、現在多く見られるミスマッチの構図を象徴するものである。
我国が得意とする技術や物づくりを活かす意味でも、現在の環境変化やマーケット、ビジネスの構造変化を考え、何処に活路を見出すのかという戦略的視点が重要になる。

「クールジャパン」というキャンペーンは、日本のモノづくりやサブカルチャーなど日本特有の文化を言っているはずであるが、世界にPRし、マーケットの掘り起こしをしても、本当の意味でビジネスとしてつくり上げることができていない。
シーズ(日本のモノづくりやサブカルチャーなど日本特有の文化)はあるが、それを広めてビジネスとして回収するためのビジネス組織、戦略が一体化して動いていないからだろう。
ある意味、家電メーカーと同じで先駆していたはずなのに、物づくりや販売という具体的なビジネスの段階になると、マーケティングや戦略がなく、大きな収穫を得ることができない。
進化のパターンや全体をリードする明確なビジネスモデルがないまま、走り出したことが原因だろう。

◆現状 何処か歪に感じる進化の仕方
小売業、飲食業、サービス業、そして数多く生まれ、物凄いスピードで進化・成長しているIT系企業、いずれもメーカーのように明確な進化のパターンを見出すことができない。
大手の小売業、飲食業、サービス業などで、システム化し、効率を高めている企業もあるが、圧倒的に数が多い中小零細規模の企業では、IE(Industrial Engineering)やQC(Quality Control)・QM(Quality Management)など管理技術とは無縁といったところも多い。
IT系企業も扱っている対象が対象だけに最先端を行っているようなイメージがあるが、企業組織として見た時にはマネジメント関連が決して強いとは言えないケースも多い。
これまでのアナログ的な現場に様々なIT機器やシステムが加わったことで、どことなく近代化したようなイメージはあるが、よく見てみると、製造業にあったようなアナログ時代の進化プロセスをとび越えて、いきなり様々なデジタル技術を受け入れた、あるいは置き換えたという新興国に似た進化の仕方をしている。
それ自体がよいか否かの判断は難しいが、何処か歪な感じがする。
現在、デジタル・マーケティングなど個々のデバイスを通した様々な測定から個別にアプローチをしていく方法、技術が盛んに開発され、普及している。
しかし、個々に見ていけば扱っているのはデジタルデバイスを媒体とした様々な技術やアプリであるが、測定データをどのように解釈し、どのような仮説を立ててマーケテイングの精度を高めていくのか、ということになると、「個人の勘」に基づく「試行錯誤」というのが実態である。
何らかの理論、法則性があって、それに基づいているわけではないから、多くの物事がブラックボックスの中で進んでいく。
結局、ビッグデータと言ってもデータサイエンティストに現場(リアル)の経験・知識があるわけではないから、あくまでも最後は個人の勘や推理、アイデアなどに頼ることになる。
そう考えれば、「進化のプロセス」を客観的に整理することは、マクロでは「サービス産業=第三次産業」の生産性を高める上で重要になるだろうし、ミクロでは個々の現場の改善効率を高める上でも重要になるはずである。
進化・変化の速度が速いから、そんなことはやっている時間がないということなのかもしれないが、普遍性のある進化プロセスが設定できれば精度が上がるから、さらに早い速度で進化することも可能になるはずである。

アンサリング人間からクエスチョニング人間へ;質問術によるトレーニング

1.アンサリング人間からクエスチョニング人間へ   
日本における教育のパターンはアンサリング中心である。アンサリングとは、出された問題に答えていくことである。
アンサリングは、問題の設定がすでに済んでいるため、問題の範囲、制約条件などの枠組みが明確になっている。
出された問題を解くわけであるから、解き方・答えのヒントは問題の中にあることになる。また、問題の解き方も既知の方法の組合わせや応用になり、定型的な答え・解を持つものと言えるだろう。
したがって、受験問題のように横並びで絶対評価をするような場合に向く。

一方、クエスチョニングというものがある。
アンサリングが「 出された問題に答えていく 」ことであるのに対し、クエスチョニングは未知の状況の中からテーマを見つけ出し、更にその「 テーマに対して答えられる( アンサリング )ような問題の形に作り上げていく 」ものである。
言い換えると、未知の状況の中から必要と思われるテーマを設定し、そのテーマに関連する要素・条件などを設定、さらに答えられる( アンサリング )ように問題の記述・定義を行なっていくのがクエスチョニングということになる。
クエスチョニングでは、関連する全ての要素を状況に応じて設定していくため、問題自体が相対的に決まる。
クエスチョニングは、非定型的であり、アンサリングのように「 絶対的な解 」を持たない。

日本における教育は、歴史的に見ても同質のものを求めており、同質・横並びの中で評価するためにどうしてもアンサリングに偏っていた、と考えられる。
しかし、そのための弊害は大きく、現在最も必要とされているのはクエスチョニング・タイプの思考方法・ロジックの形成であり、学生教育、社会人教育を問わず、クエスチョニングのトレーニングは急務である。

2.質問術によるトレーニング
それでは、クエスチョニングの訓練はどのように進めていったら良いのであろうか。
思考方法のトレーニングを行なうにはいろいろなケース・スタディが役に立つ。
ケース・スタディは単に進めていけば良いのではなく、トレーナーがついてきちんと進めていく必要がある。
ケース・スタディを行なう時のポイントは大きく分けて2点である。
① 思考方法のトレーニングであるから、トレーナー自身がそれなりの思考方法・ロジックを身につけ、トレーニングに習熟している必要がある。
( もっとも他人のトレーニングを担当することがトレーナーにとって一番のトレーニングになると考えられる。)
② 従来のアンサリングとは全く異なるため、着想、発想法、視点、思考プロセス、論理構成などを重視し、情報/解釈、認識、評価項目・評価基準・価値基準など細かく確認することが重要になる。

思考方法のトレーニングをするのには「 質問 」をすることが役に立つ。
絶対に結論を言ってはいけない。質問を重ねていくことが重要である。まさに禅問答と言ったところであろう。
あくまでも問題自体が相対的であり、絶対的な解を持たないからトレーニングにおいて「 結論を言う 」「 答えを言う 」ということは、その時点で全ての終わりを意味する。

クエスチョニングのトレーニングにおいて、ある意味ではアンサリングと異なり答えは不要である。
重要なのは、答え( この場合、設定した問題、問題をどのように認識し、記述・定義したのか )に至るプロセス=論理の組立て、要素や条件の設定の仕方である。
もともとクエスチョニングは、状況に対してどのような認識をし、そこから何をテーマとして認識しえたのか、そのテーマにとって必要な要素・条件は何か、それをどう組立てていくつもりなのか、そのために何が必要なのか、....というように未知のもの、未知の状況に関する問題の記述が目的であり、それが一つの到達点である。
したがって、トレーニングにおいては、正しく、適切に問題の記述ができるための論理や関連する要素・条件の設定の仕方が重要であり、そこに到達するまで質問を重ねていくことになる。

実際のトレーニングでは、 あくまでも質問を重ねていく。
「 現状をどのように認識しているのか 」
「 その根拠は何か 」
「 それに対して今何が必要と考えるのか 」
「 何故それが必要なのか 」
「 それは本当に必要なのか、それを行なう意味はどこにあるのか 」
「 それをすることによってどんな効果が期待できるのか 」
...............etc.
もしも質問に答えられなければ、立体的に状況が見えていない、明確な考えがない、あるいは何も考えていないのであるから質問を変えていく。
どのように質問を変えれば良いのかは相手のレベル、志向、論理構成、さまざまな条件など、状況に応じて質問者が瞬時に、しかも臨機応変に判断する必要がある。
目的や状況により、質問の視点・内容・出し方は変わる。
① 相手を知ることを目的とする場合
相手に話させること、そのために相手の考えていること、感じていることを引き出すような質問の仕方をする。
質問者が前面に出るような質問の仕方 「 私は、...」 というような言い方はなるべく避ける。あくまでも相手に答えさせることを目的とする質問である。
具体的な項目を挙げて「 何々について、どう思う? 」というような質問の対象だけを具体的に示し、一方でその項目について相手が限定せずに答えられるような質問の仕方をする。
絶対に相手の答えを遮ってはいけない。
相手が答えに詰まったり、答えが曖昧になってきた時には対象のさらに具体的な部分を指定したり、具体的な場面・ケースを挙げることで答えやすいようにサポートする。なるべく他人、特に質問者( トレーナー )の例は影響を受けやすいので避ける。
あくまでも例を出すのは、質問内容の対象、その対象の具体的な部分、場面・ケースなどに限定した方が良い。
そうすることで特定の対象に関する相手の見方や考え方を知ることができる。

② 相手を考えさせることを目的とする場合
相手を考えさせることが目的であるから、質問もなるべく具体的・直接的なものは避け、抽象的・間接的な質問にとどめる。
万が一、初めの段階で方針や論理の組立てが間違っていることが分かっても、できるだけ本人が気づくまでそのままの方向で進める。相手の答えによって質問を変え、間違いに気づくのを待つ。
ただし、常に相手の思考法、論理の組立て方を良く観察し、相手の答えを予測しながら質問を出すようにする。
例えば、相手の論理的な行き詰まりに対しては論理的な矛盾に気づくような質問( その質問の答え、あるいは質問に対する答えの出し方=論理や要素・条件設定がヒントになる )をすることで閉塞状態を打開し、再度論理を発展、あるいは組立て直すように仕向ける。
狭くなりがちな発想には全く異なる視点から質問をすることで再度視野を広げ、多面的、あるいは多次元的に物事が発想できるように仕向ける。
簡単に結論づけようとする場合には、「 その結論を否定するような答え 」を持つ質問をする。今までの方針、思考のプロセス、論理の組立て方が間違っていることを質問に答えること( 自分で結論を出させる )によって気づかせる。
結果としては、それまでやってきたことを否定し、差し戻すことになるが、自分自身が答えた内容によって自分がやってきたことの矛盾に気づくのであり、再度思考をやり直すようになる。
他人に否定され、他人に答えを言われたのではなく、自分で間違えに気づき、自分で答えにたどり着くことが重要なのである。

ある意味では、「 禅問答 」の現代版と思って良いだろう。

③ 相手を教育する、理解させる、できるようにすることを目的とする場合
手順を理解させ、できるようにするためには、その答えにたどり着くまでの手順にしたがって一つずつ質問し、質問に答えることを繰り返すことで答えにたどり着けるようにする。
表の通りに数字を埋めていくといつのまにか答えにたどり着く計算図表と同じである。
ただし、計算図表と違うのは、知らない内にいつのまにかたどり着くのではなく、一つずつ考えて答えを出しながらたどり着くことである。
また、自分の価値基準・判断基準を相手に植え付けるためには、質問に答えさせながら
「 この場合、私ならこうする。なぜならば...」というように判断の仕方とその根拠・理由を明確に示し、自分の認識の仕方、判断の根拠などを印象づけていく。
このような手順を繰り返すことで、質問に答えながら思考の手順、価値基準・判断基準などを自然と身につけていくようにする。

3.質問術
質問術は、とてもロジカルである。とても論理的である。
いろいろな場面で、多種多様な答えをするであろう、さまざまな人達( 背景にはさまざまな知識や経験、考え方などがある )に対して、質問をしていくためには、論理の立体的な構造( 質問の基になる膨大なデータ・ベース )を持つ必要がある。。
いろいろなケースに応じて瞬時に、しかも臨機応変に質問を変えていくためには数多くの引き出しの中にさまざまな構造を持つ質問、プロセス、論理、事例などさまざまなものが詰まっていなければならない。
どこからでもスタートでき、どこへでもたどり着け、しかも途中で他へ飛んでも必ず途切れることなくつながっている。その間を結ぶプロセス、そこにある選択肢が全て含まれている必要がある。だからとてもロジカルである。

例えば、店舗の状況を知りたい時には自分であらかじめ一通り見ておいてから店の人に質問するようにする。ある意味ではすでに答えは仮説として持っていることになる。
店舗で質問をする時に重要なことは、自分がどのような立場の人間でこの店に何をしに来たのかということである。
多くの場合、チェーン・ストアに限らず、悪いことがあれば隠すような風潮がある。
人間だれしも悪いことは隠したいものである。厳しくしかられればしかられるほど悪いことを隠そうとする。
もし、隠していなければ、悪いと認識していないか、そんな余裕がないのだろう。
そのような中で自分たちの置かれている状況、困っていること、他部署へのクレーム・要望事項など本当のことを答えてもらうためにいろいろな角度から質問をする。
通常、現場では何が問題なのかを的確に掴んでいることが多い。さらに多くの場合、それらの問題に対する適切な答えすら持っている。
したがって、現場で質問をすることは実態を知る上でとてもためになる。
しかし、質問が下手だと何も聞き出せずに終わってしまう。
以前にこのようなことがあった。
ある営業マンが初めて小売店に営業に行くことになった。初めてなので状況が分からず、何を聞いたら良いのか分からない。そこでいくつかの事例を挙げて、小売業が抱えている典型的な問題点を説明し、営業の参考にするようにと言って送り出した。
2、3日経ってどうしたかを尋ねると、何も聞き出せずに帰ってきたと言う。
どのような話のやり取りがあったのかを聞いてみると、事前に説明した問題点の事例を先方に全て( 自分の持っている知識の全て )話してみたら「はい、その通りです。」という答えが返ってきて、その後が続かなかったと言う。
先方は、自店の置かれている状況を事例まで挙げて話してくれたものだから営業マンが全て分かっているものと思い、それ以上話をしなかったのだろう。
また、営業マンも数少ない知識を全て吐き出してしまったためにその後が続かなかったのである。
つまり、わざわざリハーサルまでして先方に話を聞きに行ったのにもかかわらず、相手からは何も聞き出せず、自分だけ話をして帰ってきたことになる。
「 質問術 」を身につけていないための悲劇だろうが、未知の相手と目的を持って
「 会話 」をすることが如何に難しいかという典型的な例である。
会話の中にはとても多くの質問が含まれる。特に初対面や余り親しくない人と時間を過ごすのであれば絶対に相手のことを知るために質問が必要になってくる。
「 聞き上手は話し上手 」と言う言葉があるが、これは単に相手の話を聞いているだけではなく、いろいろな質問をすることで相手のことを訊き出しながら話を進めて行くのだと思う。質問を繰り返すことで相手の置かれている立場・状況など相手の考え方や判断をする際のバックボーンを知ったり、実際の物事に関する発言から思考方法や価値観なども知ることができる。
「 質問術 」に関しては(株)話し方研究所所長の福田健氏の著書に「 質問術 」
( (株)経済界 昭和62年9月 )という本がある。どちらかというとコミュニケーションという立場からいろいろなケースにおける事例を中心にしている。
広くはコミュニケーションということになるのだが、やはりそこはエンジニアリングという立場にこだわって「 質問術 」を技術として考えていきたいし、技術として論理的に体系づけてみたいというのが私の考えである。
(学)産能大学で15年間、コンサルタントとしてコンサルテーションや社会人教育に携わり、芝浦工業大学でももう5年以上学生に教えている。
その中で感じることは、単に断片的な知識ではなく、さまざまな知識・経験などをいろいろと使いこなしていくための主体性、創造力、想像力、構成力などを「 自分の知恵 」
「 自分の論理 」として如何に身につけていくか、ということの重要性である。
特に最近テレビを見ていると日本代表のサッカー選手、あるいは塾に通う子供たちの
創造力(creativity)、想像力( imagination )のなさ、が盛んに指摘されている。
一つのパターンを身につけると、すでに状況が変わっていても同じパターンで対応することしかできない。アンサリングしかやってこなかったことの結果ではないだろうか。

最近、日本でも取り上げられることが増えているがアメリカでは議論や論理構築のトレーニング手法として「 ディベート 」というものがある。
残念ながらこのような手法・技術は日本人の感覚からすると理屈っぽくて敬遠されがちである。
従来の「 技術 」という概念からは外れるかもしれないが、あらゆる人があらゆる場面で必要となる思考方法・論理構成のトレーニング手法・技術として「 質問術 」、そしてそれらのバックグラウンドとして「 クエスチョニング 」というものが今後とても重要になってくるだろう。
特に流通・小売業は絶対ということが無い世界である。知恵の勝負になった時に必要となる人財と技術、そしてそれらを支えるのは創造力・想像力や構成力など未知のものに対するクエスチョニングであることは間違いないだろう。

クエスチョニングのすすめ ....アンサリングとクエスチョニング

■ アンサリングとクエスチョニング
すでに絶版になってしまったが、元東京工業大学学長 松田武彦氏の著書に「 クエスチョニングのすすめ 」という本がある。
クエスチョニングとは、アンサリングに対応する概念であり、アンサリングが「 問題に答えること 」であるのに対し、クエスチョニングは「 未知の状況に答えられる( アンサリング )ように問題という形に作り上げていくこと 」を言う。
少々、ニュアンスは違うかもしれないが、身近にある言葉の中から近いイメージの言葉を探すとすれば「 課題を形成する 」ということになるだろう。
「 クエスチョニング 」という概念は松田氏がアメリカへ留学された際に初めて出会ったものであり、それまでの常識とはかけ離れた概念であるために強烈な印象をもったという。
松田氏は後に(学)産能大学に迎えられ、私がこの話を聞いたのは今から30数年前、私がまだ30歳前半の時に行われた(学)産能大学主催のエグゼクティブ・フォーラムの基調講演である。
いろいろな人の話がある中で、全く違う視点から物事の根幹をとらえられていたこともあり、とても印象的であった。
その後、私の発想・思考と合わせて、「クエスチョニング」は一生を通して重要なテーマとなっている。今年度で32年間続けた芝浦工業大学での講義を終えるが、終始一貫して学生に提供してきたのは、この「クエスチョニング」という考え方に触れる機会であり、エンジニアリング=実技(できる)として学生が社会に出て使える一生モノの武器を身につける機会であると自負している。

「クエスチョニングのすすめ」では、松田氏がアメリカに留学された時のことから紐解き、様々な視点からクエスチョニングの重要性を指摘している。
留学して感じたのは、あまりにも周りの人たちが難しい「 微分方程式 」を解くのに苦労していたことだという。ある時、「 そんなふうに解けなくて大丈夫か 」ときくと「 解く人はいくらでもいる。工学現象の微分方程式を作るのが我々エンジニアの仕事であり、解くのは応用数学科などを出た人がやってくれる 」という答えが返ってきた、と言う。

日本人が「 問題を解くことだけが勉強 」だと思って一生懸命勉強に励んでいる時に、アメリカでは「 問題を作る 」という役割と「 問題を解く 」という役割に概念も実態も明確に分かれていた、という。ある意味では、この事だけでも十分、驚くに足りることである。
そう言われてよくよく考えてみると、アメリカのスポーツなどは、アメリカン・フットボールもベースボールもオフェンス(攻撃)/ディフェンス(守備)と言う概念がとても明確に別れている。
コーチにしても、作戦、技術、フィジカル、メンタルと言うように細かく役割が別れており、日本のスポーツなどとは組立てが違っている。

確かに役割分担と言うことが明確な国なのだろう。

昔から日本人にとって「 勉強 」と言えば知識を取り入れること、言い換えればどれだけ多くのことを知っているのかをテストし、そのテストで良い点を取ることが全てであったのではないだろうか。
一生懸命に勉強をして、良い成績をとって、良い就職先を見つけ、出世をする、....etc.
それが筆記試験であれ、面接であれ、とにかく、自分に出された問題を解くこと、問題をうまく解いて良い点数を取ることが勉強の目的になっている。
今では、入社試験用の面接マニュアルまであるのだから採用する側もそういう本に目を通しておかないと騙されてしまう、とはある企業の人事担当者の話である。
大変な時代になっている。

しかし、知識を多く取り入れること自体はあくまでも「 手段 」でしかなく、その知識を知恵にまで高め、さまざまな物事、未知の状況に適応して初めて勉強の「 目的 」が達成できるのではないだろうか。
現状は、手段が目的化してしまっており、目的を見失っているとしか思えない。
このように、問題を作ることが専門の人は問題を作ることばかりを勉強し、問題を解くことが専門の人は問題の解き方ばかりを勉強している、などということは我々日本人の理解をはるかに超えている。
どちらが重要で、どちらが難しいかと言えば、言うまでもなくこれは問題を作る方=クエスチョニングと言って良いであろう。
松田氏は、著書の中で問題を作るための情報( 外部情報中心であり、入手が困難な分、情報量が少ない )と問題を解くための情報( 内部情報中心であり、入手が容易、情報量も豊富 )と言うように分けてとらえている。
しかし、単に情報入手の難易だけではなく、問題を解く場合であればすでに「 問題 」の出題時点で問題の範囲、制約条件などの枠組みが明らかになっている。
したがって、問題を解くためには、限定した枠組みの中だけで物事を考えていけば良い。しかも、通常は問題の中に問題を解くためのヒント・条件などが必ず入っているものである。
一方、問題を作る方には、はじめからそのような枠組みはなく、自分で問題の範囲、制約条件などの枠組みを設定していくところからスタートしていかなければならない。
まさに問題を解く=アンサリングは「 下絵が描いてある塗り絵に色を塗る 」こと、問題を作る=クエスチョニングは「 真っ白なキャンバスに絵を描く 」こと、というほどの違いがある。
これだけでもとても大きな違いと言えるが、具体的に進めることを考えると、そのように単純なものではなく、状況の認識・解釈、テーマの設定、範囲・制約条件の設定、要素のリスト・アップ、構造・メカニズム・プロセスなどの想定、情報収集、...etc.と言うように作業の質・量ともに次元が違う事が分かる。

私も学生時代に恩師である芝浦工業大学の津村豊治教授( 当時 )から「 問題の記述=事実を正しく認識し、整理することができたら、その問題の8割は解けたも同じだ 」というように習ってきた。
言葉は違っても二人が言っていること、内容には相通ずるものがある。
「 物事の本質 」に近づいた人は皆似たような視点・発想を持つようになるのかもしれない。( 2人に共通することには経営工学を専攻していると言う点もある。)

■ アンサリングの限界
我々の間では、よく「 何が問題か分からないのが問題だ 」などという言い方をすることがある。
何かおかしい、どうにかしなければならない、と言う状況がある。しかし、何が問題なのか分からないから手のつけようが無い。まさに「 問題の記述ができない 」「 課題の形成ができない 」のである。
問題さえ出してくれれば解く訓練はできているからどうにかなるが、問題を出してもらえなければ解きようが無い。
アンサリングの悲しい所である。アンサリングは受け身でしかない。
日本における教育は、小さな時から一貫して一つの型にはめ、アンサリングの訓練をさせてきた、と言う歴史を持っている。
当然、「 問題を上手く解く 」というところに評価基準があるので、「 問題を解くことの上手い人間は成績が良い 」、ということになる。
一方、いわゆる「 勉強 」が嫌いであり、「まんべんなく問題を解くこと」が嫌い、あるいは「問題を作る( そこまで意識としてははっきりしていないが)その入口付近にいる 」方が好き、と言う人間は「 変わった人間 」ということで評価されにくい仕組になっている。
しかし、一度、未知の世界へ放り出されてしまうと状況は変わってくる。
誰も問題を出してくれない状況で、明確に問題を認識できないから答えることもできなくて頓挫してしまうのはアンサリングで育ってきた人たちである。
自分で問題を作り上げるようなクエスチョニングの訓練ができていないからせっかくの勉強の成果も発揮することができなくなってしまう。
子供の時からずっと「 成績が良かった人間 」がある時何もできない無力な人間ということになってしまう。「 出された問題を解くことだけ 」を専門にやってきたことの限界である。

■ クエスチョニングのすすめ
一方、このように枠組みのない状態になると生き生きとしてくる人たちもいる。クエスチョニング・タイプの思考法を持っている人たちである。
アンサリングで育ってきた人たちが成すすべもなくたたずんでいる時に、いろいろなことを調べてみたり、実験を始めたりしだす。
いろいろと疑問を抱き、議論をし、自分で仮説を設定し、その仮説を実験や観察で検証していく。

このようにして考えてみると、日本において「 成績が良い 」ことの価値も半減してしまう。

昔から、よく日本人は他人の真似がうまく、海外で開発した技術の真似をしては製品を作り、手先の器用さとコストの安さで世界に進出している、と言われている。
基礎研究=物事の原理、構造などに関する研究は遅れているが、欧米が行なって明らかになった基礎研究の結果を基にしてさまざまな製品化を図る応用研究については長けている。
このような点も、アンサリングをずっと行なってきたことと相通ずる部分があるのだろう、と松田氏もその著書の中で指摘している。

基礎研究の方が応用研究よりもはるかに時間がかかるために、いつまでも他人が開発するのを待っているわけにはいかない。いずれ、自らテーマを探し、自ら研究方法を工夫し、自ら基礎研究をやらなければならない時は来る。
いずれにせよ、未知のものに対してクエスチョニングで対応することが必要となる時が必ず来る。
そういう意味では、学生教育も社会人教育も本質的には同じような課題に直面している。

今年教えた学生にアンケートを取ったら「 講義よりも自分でレポートのテーマを決め、自分で調べてレポートを書き上げたことの方が勉強になった 」と書いてきた学生がいた。
講義で得る机上の知識よりも「 自分でレポートの仕上げ方=勉強の仕方、方法( 自分でテーマを見つけ、自分で調べる項目を決め、自分でその項目について調べ、自分の論理に従ってレポートとしてまとめ上げる )を身につけたことの方が為になった 」と感じる学生が出てきたことは教える側にとっても喜びである。
アンサリングでズーッと育ってきた学生には多分とても新鮮なことなのだろう。

早急に「 クエスチョニング 」のトレーニングを強化しなければならないと言うことであろう。( 思考方法の訓練だから「 勉強 」ではなく「 トレーニング 」である。 )

クエスチョニングのトレーニングは早ければ早い方が良いと思う。
理由は簡単である。問題を出さなければ答えられないのだからクエスチョニングの方を優先し、アンサリングよりも早くトレーニングした方が良いと考えるのである。
基本的にクエスチョニングは未知のものを相手にし、アンサリングは、既知のもの( あるいは、既知のものの組み合わせ )を相手にする。
特に思考方法のことである。一度アンサリングで固まってしまった人がそのままの思考方法、ロジックでクエスチョニングに対応することは不可能に近いといっても良いだろう。
逆に、クエスチョニングから入っていった人であればアンサリングに対応することは可能である。 理由はクエスチョニングの要素の中に「 答えや解き方=アンサリング 」が含まれているからである。
「 問題を作る 」ためには必ず答えや解き方に関する仮説が必要になる。
どのような「 解 」のバリエーションがあるのか,その問題は「 問題として適切か」「 正しい問題か 」、ということをあらかじめ「 仮説-実験-検証 」という手順によってシミュレーションを行い、検証しておくことが必要になることすらあるだろう。

我々がコンサルテーションを行なう時も同様である。
クライアントとの打合わせ、ミーティングの中で直感的に「 答え 」「解き方 」に対して仮説を立てることができた仕事は、企画書作成も容易にでき、プロジェクトも良い結果につながる。
この場合の企画書、プログラムは「 解 」「 答え 」にたどり着くための考え方・仮説・手順・方法などの「 解き方 」を整理したものである。
重要なことは、「 答え 」や「 解き方 」に対する仮説が設定できるどうかであり、「 提起した問題を記述する 」ことで問題を定義し、問題として解ける形にまで仕立て上げることができるかどうかである。
一方、どんなに打合わせをしても、答えがイメージできない、見えてこない場合には、企画書を作ることがとても困難になる。
定型の研修プログラムであれば切り張りをしたり、どこかからコピーでも持ってくればことたりるが、コンサルテーションともなるとそうは行かない。
まさに企画書、プログラムが「 問題の記述 」「 問題の定義 」そのものであり、問題の記述・定義ができなければコンサルテーションどころか何に対しても手も足も出ない。

アンサリングは既知のものの組み合わせでしかないから定型的であり、横並びで評価するような絶対的評価を下しやすい。
受験生を横並びにして評価するためにはとても便利な手法であるかもしれない。
しかし、問題の解き方はいくら上手くなっても、問題があって初めて使えるものであり、アンサリングのトレーニングをいくら繰り返してみても、発展性があるとは言えない。
一方、クエスチョニングは非定型である。
未知のものから「 問題の記述 」「 問題の定義 」をし、「 問題を作り上げる 」のであるからそもそもテーマ自体が相対的である。
さらにその問題に対し、どう対処するのかも相対的に決まるものであるから「 絶対的な解 」を持たない。
あくまでもそこにあるのは、「 相対的な解 」であり、適切/不適切、上手い/下手という違いはあるかもしれないが、「 唯一絶対の解が存在し、それ以外は全部間違い 」ということにはならない。
これが「 クエスチョニング 」と「 アンサリング 」との大きな違いである。

我々の周りには多くの人々がおり、さまざまな状況がある。
しかし、その多くの人々が、子供の頃から「 アンサリング 」中心の教育を受け、発想、ロジックが片寄っている社会構造はいろいろな意味でバランスを欠くことになる。
やはり、「 唯一絶対 」という解に対して疑問を提示し、「 問題自体に対する適切さ 」「 問題としての正しさ 」を議論できるような幅広い視点を養うためのトレーニングがさまざまな段階で急務である。

今、必要とされているのは、まさにクエスチョニング的な発想・思考方法ではないだろうか。

幼稚園・小学校で改善の見方・考え方を教えよう‼

1.目に余る社会的なエラー 常識では考えられないヒューマンエラー、組織的構造的エラーをなくそう
通園バスの閉じ込めという痛ましい事故が相次いだ。その後、いろいろと対策が検討されたが、未だにヒヤリハット事例はなくならない。先日も園児21人を乗せた送迎バスが幼稚園についた際、4歳の男児1人を降ろし忘れて別の送迎ルートに向かい、途中で気付いたという。
添乗スタッフが目視による確認で男児を見逃し、降ろし忘れを防ぐ安全装置はエンジンを切らないと作動しない仕組み、さらに添乗スタッフと迎えた幼稚園の教諭がチェック表で確認する決まりを守らなかったという3つのエラーが重なった。
物理的に様々な装置を設置し、マニュアルなどの決め事やチェックリストなどをいくらつくっても、それだけで100%エラーはなくならないという典型的な事例である。どんな対策をとっても現場で使わない・使えなければ意味がない。

長年、現場で改善を指導してきた経験からすると、どんな装置を設置しても、操作が複雑では現場が混乱する。役に立たない装置は現場ですぐ分かるが、そのような声は上がらない。机上論で一生懸命つくったマニュアル・チェックリストは、厳密であればあるほど手間と時間ばかりがかかる。人手不足の現場実態とかけ離れれば、運用ができない・しないから、エラーを見逃しても問題発見が難しくなる。
「仏つくって魂入れず」、解決を急ぐあまり、問題の本質がどこにあるのか、どのような解決=ゴールを設定するのか、という最も基本的な改善トータルの設計思想、組織全体の共有がないまま手段・方法論だけで運用するのは最悪である。
過去の通園パスの閉じ込め事故、そして今回のようなヒヤリハット事例を見ると「仕組み」「管理」が実に安易に行われていることがわかる。「つい」「うっかり」「たまたま」で多くの園児が危険にさらされ、尊い命が失われている。
多くの人・組織、指導する行政が「施策の実施=手段」ばかりを重視し、「目的・ゴール=エラーの100%排除」から逆算して「結果を保証する」ための手順を怠るとこうなるという典型的な事例である。
かつて製造現場で取り組んだ品質保証の考え方、手順が有効であるが、残念ながらそのような知識・経験・知恵は一般社会にはない存在しない。複雑で難しく、特殊な世界のものであるが、現場実態に合うように分かりやすく翻訳すれば、その考え方・手順だけでも十分効果が期待できる。
ポイントは「単純で簡単」「いつ」「だれが」やっても必ず同じ結果になる仕組みを確立するという「設計思想」「100%エラーを排除するというゴールの設定」「そのための原理原則」を明確にすることである。
事故やヒヤリハット事例の構造を見ると、ある意味、性善説的に一つの手段で全てが解決すると思い込んで取り組んである。そもそも「人は間違える」「イレギュラーは必ず起きる」ということを前提として施策を設定していない。
100%エラーを排除するには、工程ごとに関連する要素を洗い出し、あらゆるエラーの入り込む可能性と排除方法を明確にして対処する必要がある。
今回の事例のように「たまたまエラーが3つ重なった」ことで起きる重大エラーは、各工程の小さなエラー(安易に見過ごしてきた)の可能性(まさかそんなことが起きるはずがない、きちんとやってさえいれば….といった根拠のない安易な思い込み)が放置されてきた結果である。

高度で信頼性が高いとされる99.9999%、いわゆるシックスナインでさえ100万回に1回のエラーが起こるかもしれないと認めている。日本に約10,000ある幼稚園が1台ずつバスを運営し、送り迎えしていれば50日に1件の割合でエラーが起こる確率である。実際にはバスの台数、コースまで加えればはるかに多くのバスが運営されているから、99.9999%などのレベルでは事故が頻発してもおかしくはない。
通園バスのような人命にかかわるケースに求められる100%と99.999999999….%は本質的に違う。しかも現場は人手不足、高度な教育訓練・動機付けもなかなか難しいとなれば、「単純・簡単で分かりやすく」「いつ」「だれが」やっても必ず同じ結果になることが求められる。決め事が人の資質やその場の状況に依存しない、「つい」「うっかり」「たまたま」などの要素が混入しない=完全に排除されることが必要になる。。
「結果を保証する仕組み」はプロセスの管理によってしか生まれない。装置を設置し、マニュアルやチェックリストを作ったらそれで終わりではなく、それらはエラーの100%排除という目的のための一手段、しかもそのほんの入口に過ぎないことを理解すべきである。

2. 「フールプルーフ(バカ除け)」
半世紀以上も前、作業者の手・指を落とす事故が頻繁に起きていたプレス加工の現場では両手でスイッチを押さない限り機械が作動しないような仕組みに変えた。さらに周囲にセンサーを設置し、センサーが反応すれば機械が作動しない、途中で止まる仕組みにすることで、事故の可能性を排除した。(作業者がつい、うっかり、たまたま変な動きをしても事故は起きない)
かつて製造現場で盛んに研究、工夫された「フールプルーフ(バカ除け)」などによる改善は、様々な現場で取り組まれ、多くの改善事例とともにエラーのタイプ別に改善方法(やり方・効果・利点/欠点)・法則などを汎用的な知恵として蓄積した。
しかし、様々な改善活動の結果、現場の安全が保障・効率が確保されるようになると、そのような状況が当たり前になる。いつしか改善の必要性も改善活動によって蓄積されてきた知恵も必要がなくなり、改善という有効な知識・経験・法則・手法などは伝承されなくなってしまった。

一方、一般社会、特にサービス産業の様々な現場は、そのような経験的進化をしていない。知識・経験とも皆無といってよい。
通園バスの事例を見ても分かるように、半世紀以上も前の製造現場より、はるかに遅れた状況=人の資質や感覚だけで運用されている。しかも、マニュアル、チェックリストの何たるかといった本質の理解、正しい定着のさせ方も分かっていなければ、人手不足の現場業務はチェック作業やマニュアルによってより複雑で煩雑なものになる。
「究極の改善はなくすことである」というのが基本である。余分なことをしなくてもエラーがない100%の結果が出せることが理想である。
現場の仕組みを変えることなく、様々なモノを押し付ければ現場はかえって混乱し、状況は悪化する。
人手不足、高度な教育訓練が難しぃ、人の資質や動機付けに頼れない、….等々、小規模なサービス産業の現場における条件を満たし、誰でも簡単にでき、楽しみながら業務ができて、100%エラーを起こさない、しかも安価で水平展開しやすい、…など、改善の最も基本となる仕組みを作り上げる必要がある。

3. 幼稚園・小学校で改善を教えよう‼ 
前述のようなおかしなこと、起こるべくして起こるエラーは、一般社会の中に数多くあり、しかも誰も気が付かずに放置されたままである。しかし、モノ・コトに対する見方をきちんと訓練すれば小さな子供でもおかしなことは分かる。
複雑で難しいことが良いのではなく、単純で、誰でもすぐに理解でき、簡単で同じにできることが一番である。
そのような視点を素養として小さなうちから身に着けておくことは有効である。ゲーム感覚で遊びながら習熟していけば小さな子供のうちに身近な「改善」を通して多くのことを身に着けることもできる。何よりも論理的、かつ多角的で「事実を基にモノ・コトの法則性を見出す」という科学的思考のトレーニングにもなる。
「一目見てやり方などの違い、おかしな点が分かり、どのようにすればもっと良くなるかがイメージできる」そんな「素養」を小さなうちから身に着けていけば、社会全体は大きく変わる。
ここで紹介した「フールプルーフ(バカ除け)」「IE(Industrial Engineering)の方法研究にある動作経済の原則」「QC;Quality Control品質管理、QA;Quality Assurance品質保証」など、いまでは誰も知らない・聞いたことがない、あるいは昔聞きかじっただけの人が、何を今更とバカにするような改善の法則・原理原則が、人口減少・高齢化し、サービス化したいまの社会には大いに役に立つことは確かである。
*ただし、身近な事例を用いて簡便な形にアレンジ、翻訳して普及する必要がある。

「温故知新」近代的な工業は様々な歴史の上に成り立っているが、いまの一般社会、特に行政をはじめ、サービス化した産業の現場にはそのような基盤はない。
過去に指導した和洋菓子の製造販売は複数の工場、店舗を持ち、20億円弱の売上、従業員数もパート・アルバイトを含めて100人以上いたが、標準作業・工程分析・工程管理はなく、原価計算方法も間違った考え方で行っていた。人手・時間がかかり、技能によって出来栄えが違う工程にちょっとしたジグを導入しただけで生産性は何倍にも上がり、不良も大きく減少している。
様々な経験・知識を持つ人から見れば信じられないようなことが、日常当たり前のように起こっている。
昔から伝わる「おばあちゃんの知恵袋」には、科学的根拠に基づくものも多く含まれている。「知識ではなく、知恵が重要」と言われて久しいが、急激なデジタル化しとAI活用が叫ばれる現在、知識も知恵も失われてしまえば、多くの人、そして社会全体が進化を止めて退化するしかない。

新型コロナウィルスの流行をきっかけに様々な行政の仕組みのおかしな点が顕在化したが(恐ろしいことに、それがなければ誰も気付かなかった)、マイナンバーカードの紐づけ問題では信じられないようなヒューマンエラーとヒューマンエラーが防げないシステム設計(紐づけ時のやり方)による構造的エラーが顕在化している。現状認識の甘さ、設計思想の問題がある限り、どんなに人数と時間、コストをかけてもまともなものは作れない。
おそらくチョッとでもシステムの知識がある人(情報を専攻する学生ばかりでなく、プログラミング知識のある小さな子供でさえ)なら「何故そんな手順、入力画面にしたのだろう?」と疑問に思うことだろう。
工程分析と各工程の構成要素、それぞれのエラーが混入する可能性(シミュレーション)を洗い出して、一つずつ潰していけば(いわゆる品質工程表)、ほとんどのエラーは防げる。コロナ初期のアプリ開発ではないが、今回のマイナンバーカードも、はじめに多少の時間とコストをかけて現状分析に基づく設計思想(正しい論理に基づく)を明確にしていれば、後からの検証に信じられないほどの膨大な時間と税金を使う無駄は起こらなかったはずである。
知恵を使うことなく、基本、原理原則を守らなければ、結果的に多くの無駄が生じることは多くの事例が示す通りである。分かる人にはやる前から見えているが、分からない人は結局やっても何も分からない。そんな状況はもったいない。

通園バスのエラー防止もマイナンバーカードの紐づけ問題も「フールプルーフ(バカ除け);人はエラーをするから、絶対にエラーが起きないような仕組み」を理解して取り組めば十分防ぐことができる。
いまでは全く聞かれなくなったIE(Industrial Engineering)は、100年以上前から現場で工夫を繰り返し、蓄積されてきた知恵の集大成である。QC;Quality Control品質管理、QA;Quality Assurance品質保証も考え方と手法をうまく応用すれば、特に人が多くかかわるサービス産業の現場では大いに役立つだろう。(過去に遡ればすでに大きく改善された事例も数多くあるから、あとはそれらを応用するだけで改善できる。知っているか否かの違いは大きい)

製造現場を前提とした手法というイメージ(実際にはサービス業でも行われている)を取り払って、日常生活、社会一般の中に広く応用・浸透できる生活の知恵、万人がより良い生活を送るための生活の知恵というように考えれば、小さな子供の時から素養として身に着けておくことは大いに役に立つ。
頻繁に使うものは取り出しやすく仕舞いやすい所に置き、あまり使わないものは高い所などに置くというのは、日常的に主婦が当たり前に行わっていることである。
全てはこのようなモノ・コトの道理、理にかなったことの積み重ね、その延長線上にある。それが様々なケースについて実証的に体系づけられた学問分野があるのではあれば、有効に生かさない手はない。
「無知の知」は全てのスタートになる。水は高い所から低い所に流れると考えれば、低い所に流すべき水は多くの人が知らない・気付かないだけで、どこかに仕舞い忘れたまま放置・忘れられていることを知るべきである。
いまこそ、このような価値ある財産を見直して有効活用する時だろう。

商品を構成する基本機能、二次機能、三次機能

 商品には形があり、モノとして触ることができる。ただし、商品は、昔から経済学で「お客は商品という物を買っているのではなく、商品を通して得られる効用(消費者のニーズを満足させる度合)を買っている」と言われている。
 そのような視点から商品を見ると、商品の持つ「機能」について理解する必要がある。
 機能は、物の持つ有用な性質、はたらき、作用などのことである。具体的には、ライターは「熱を発生する」ことで火をつけることができるし、ハサミは対象とするものを「分離する」ことで切り分けることができる。これが機能である。
 改めて、消費者にとって商品が持つ意味を整理してみると、大きく分けて基本機能、二次機能、三次機能というとらえ方ができる。
◆基本機能 : 基本機能は、機能の中でも「その物が物として存在・成立するために具備する必要のある必要最低限のはたらき」である。
 例えば、ライターの場合、タバコに火をつけることを前提とすれば、少なくとも紙の発火点まで熱を発する必要があるし、ハサミは一般的な用途から考えれば紙や布を切り分けることができる必要がある。また、テレビは音声と映像の両方があって、はじめてテレビとして成り立ち、仮に映像がなければテレビではなく、ラジオになってしまう。
 このように、どんな商品にも「その商品が存在・成立するために必要最低限具備すべきはたらき」があり、それによってはじめて「商品として存在・成立」することができる。
◆二次機能と三次機能
 一方、商品には基本機能以外にも様々な「はたらき」がある。例えば、テレビはチューナーの数によって同時に見られる(或は録画できる)番組の数が決まるし、4Kテレビのように画素数が多くなることで映像を極端にきれいで鮮やかに見ることができるようになる。これらは、テレビがテレビとして成り立つ上で必要となる「音声」と「映像」という条件とはまた違った機能であり、ある意味基本機能を満足した上でさらに付加された機能ということができる。
 このような基本機能以外の副次的機能が物理的に付加されるものを二次機能という。左右どちらの手でも使える利便性を増したハサミ、重ねても膨らまないように針が真っ直ぐ止まるスタープラー(ホチキス)など、様々な分野の商品で二次機能が重要な役割(差別化のキーを握る)を果たすようになっている。
 基本機能、二次機能は製品改善、新製品開発を効果的に行うために生まれた概念であり、「物としての商品」が対象であったが、状況は大きく変わり、「物としての商品」とは別に「意味としての商品」が無視できないほど大きなウェイトを持ちはじめている。ブランドである。
 例えば、ブランド商品と同じ工場で全く同じ仕様でつくられた商品でも、ノーブランドであればブランド商品と同じに評価されることはない。
ブランドは、「物としての商品」とは異なり、消費者の心理の中で固有のイメージ、価値を形成している。消費者は「物としての商品」とは別にブランドというフィルターを通して「意味としての商品」を見るため、全く同じ仕様の商品であったとしてもブランドの有無で価値が全く変わる。
 ブランドの持つイメージ、価値を通して商品を見れば、基本機能、二次機能だけで商品の価値は測れない。有名人が使っている商品、プロスポーツ選手が使っている〇〇モデルのスパイクやグローブ、〇〇仕様の用具類なども全く同様である。
 このように機能には「基本機能」以外に「物としての商品」が持つ二次機能、「意味としての商品」が持つ三次機能があると考えられる。
 これら3つの機能が相互に影響し合いながら「物としての商品」と「意味としての商品」が重なり合い、「商品」が形成される。
「物としての商品」と「意味としての商品」、どちらのウェイトが高いかは商品によってマチマチだが、どちらか一方が欠けても商品として成立することは難しい。
 単に商品を価格だけで評価しているのでは、良い商品を創ることも販売することもできない。消費者の心理、マーケットの変化をよく観察し、理解する必要がある。

新型コロナウイルスと正常性バイアス(normalcy bias)  ⋆bias 偏見、先入観、思い込み

3.11東日本大震災から月日が経ち、正常性バイアス(normalcy bias)という言葉もほとんど聞くことがなくなった。
正常性バイアスは、災害時に被害を大きくする要因として注目されている人間の意識のことである。
もともと正常性バイアスは、一々些細なことに反応しないようにする心の安全装置の一つとも説明されるが、「まだ大丈夫」「まさかそんなことは起こらないだろう」という気持ち=油断、自分に都合の良い解釈が被害を大きくする。
さらに、そこに多数派(集団)同調バイアス(majority synching bias=迷った時に周囲と同じ行動をとる)が加わり、正常性バイアスと同時に起こると一層被害を大きくすることが指摘されている。(要するに、みんながやっているから自分も…という安易な意思決定の仕方である。責任はどこにもないから、何か起こっても誰も悪くない?という、誠に無責任な、ある意味日本人的な状況といえる。)

そこで新型コロナウイルスへの対応である。
誰も小説や映画に出てくるような、こんな状況が実際に目の前で起こるなどとは思わなかった、あるいは今でも思っていないというのが正直なところだろう。
武漢、イタリア、スペイン、ニューヨークなどの惨状をテレビで見ても、まだ日本で実際にそんなことが起こるはずはないと思っている人がたくさんいるはずである。
悲惨な状況にある海外で実際に働く医師たちの取材・警告ビデオもテレビで流れることが増えているが、それをテレビで見ているのは自宅にいる人ばかりだから、関係ないと思っている人たちにその情報はおそらく届いていない。
どんな場合でも言えることだが、大多数の人と外れて行動している人たちは、情報のルートや量、質も異なる。情報が違っていることが認識を違わせているということだろう。

3月の連休の緩みは明らかに政府の間違いといえるが、緊急事態宣言が出ても商店街や潮干狩り、鎌倉などの様子を見れば、多くの人たちが正常性バイアスの真っただ中にいることは確かだろう。
感染し、回復した人たちのインタビューを聞けば、明らかに事態を軽く見ていた、ナメていた、反省しているといった何とも言えない気持ちが伝わってくる。
分からないから、可能な限り、想定できる以上に注意を払うのか、分からないから仕方ない、その時はその時と安易に考えていつも通り行動するのか、その違いは大きい。
ただし、新型コロナウイルスに関しては「分からない」のではなく、もう海外の様子などから多くのことが分かっている。
分からない人たちは、その情報を知らないか、あるいは正常性バイアスの中にいるかのどちらかである。ただし、その人たちはいずれ自分が加害者になる可能性があるということまでは認識していない。(都会を離れ、地方に疎開するという人たちも同じである)
自分の勝手で感染した人と必死になって医療現場で働いて感染した人が、どちらも同じに扱われることは不公平だし、許せないという批判もある。
物事の道理、道義上の問題である。
今一度、状況を冷静に見直す必要があるだろう。

絵(図)を描いて頭を整理・活性化しよう!

モノ・コトを考える時には常に絵を描く(図に描く)ようにしている。理由は「全体を目で見て確認できるようにすること」である。
モノ・コトを考える時、何か拠り所がないと思考が整理できずになかなか前に進まない。目で見て確認できると積み木を組み立てるような形で一つずつでも形づくることができる。さらに複雑なモノ・コトを対象とする時にはジグソーパズルを組み立てるような感じになる。そんな時には一つの図が出来上がるまで何回も書き直し、出来上がるまでに3ヶ月から半年近くかかることも珍しくない。
ただし、このようにして出来上がった図は何十年経っても使える普遍性があるから、3ヶ月から半年という時間はむしろ短いといってもよい。
図に表す、あるいは絵を描いて整理・確認する内容はモノ・コトの関係性、法則性などが中心である。場合によっては、いくつかの手順を経ることで一つの目的を達成するために複数の図を作ることも珍しくない。ある意味、論理的思考と試行錯誤の組み合わせだから、行きつ戻りつ答えに向かって収束していく。
探しているのは原因=結果(特性=要因)、目的=手段、I/P=Process=O/P、時系列、構造/メカニズム、グルーピングなどであり、これらの関係が組み合わさることでいろいろなモノ・コトの真理に近づくことができる。
単に思考の整理というよりは、思考の道具を用いた思考そのものといってもよいだろう。
大切なことは、全体が目で見て確認できること=visibility(可視性、一覧性)を得ながら(具体的に確認しながら)思考を進めることである。
学生にもA3の紙を渡して絵を描くことを推奨している。慣れない人は紙を持て余すが、中学、高校などでトレーニングできている人だとマーカーで色分けするなどして絵の中に要素を整理していく。
筆者が「絵(図)を描いく」ことを推奨するのは、よほど頭がよいか、直感が優れている人でもなければ、モノ・コトを瞬時に整理・理解することなどできないからであり、凡人は絵という道具を使いながら一つ一つ思考を整理するという技術を身に着け、習熟することが大切だと考えているからである。
できれば、小さな子供の時からこのような習慣を身に着けるようにしていくことが大切であるが、残念ながら大学に入学し、初めて経験するという子供は多い。
つまらないことを暗記することが勉強などという勘違いが根強く残っているが、そんなことに時間を費やすのであれば、遊びながらでも勉強(モノ・コトを理解しやすく整理する)の仕方を身につける方がはるかに有意義だろう。
根本的に「教育」の本質を見直すことをしないとグローバル化、デジタル化する時代に全く通用しない子供をたくさんつくり出してしまう。

新型コロナウイルス対策で見えてこないコンサルティングファームの顔

新型コロナウイルス対策に関しては、誰が見てもぎこちないとしか思えない動きが目立つが、冷静になって考えてみると、本来であればプロジェクトマネジメントが得意なはずのコンサルティングファームの顔が全く見えてこない。
今回の新型コロナウイルス対策は当初から「戦争」という言葉を使って表現されていたにもかかわらず、国という総合的なシステムをマネジメントすることに対して、的確な助言・実施指導能力を有するはずのコンサルティングファームの存在が生かされていない。
本来「戦争」ということであれば昔からロジスティックス、後方支援の重要性は認識されているはずである。しかし、現状を見れば通常9割ともいわれる後方支援、マネジメント、現状分析、戦略・戦術策定、人員・物資、各種システムなどの提供、供給が追い付かず前線は疲弊している。
NHKが盛んに過去の新型ウイルスに対する特集をテレビで流しているが、それを見れば何をどうすればよいのかという方向性だけは理解できる。
ただし、以前からパンデミックに対応しているのは公衆衛生や感染症、医療分野の人たちだけという偏った分野の人たちばかりである。
要するに現象が起こっている現場と統計的に処理したマクロデータ、それらと現実、実態としての世界を結び付け、現実の世界をコントロールするための戦略を練る部隊と実施組織が不足しいる。
今回の厚生労働省の新型コロナウイルス感染症対策を見ても分かるように当初から厚生労働省を主幹部署として取り組まれてきた。https://www.kantei.go.jp/jp/singi/novel_coronavirus/taisaku_honbu.html
新型コロナウイルス感染症対策専門家会議のメンバーを見ても医療、感染症分野の専門家ばかりである。
先日、NHKスペシャル新型コロナウイルス「瀬戸際の攻防 感染拡大阻止最前線からの報告」という厚生労働省の対策チームの活動を追ったドキュメントを放送していたが、戦略立案から実際の分析、様々な部署への説明、交渉、記者会見まで、あらゆることを担っているのはまさに医療分野の専門家たちである。
具体的な実施は各都道府県市区町村の保健所や医師会、病院などであるが、彼らのほとんどはこのような事態に対して訓練を受けていない。しかも一つの組織として統制の取れた行動をとることなど不可能な状況にある。スーパーバイザーのような人材、システムが必要になる。
不足するマスク、手袋、防護服、消毒剤、人口呼吸器、ECMOなど、様々な物資とともに医療に関係する人員、訓練された人材の不足が問題化している。
これらは専門家会議の範疇とは言い切れないまさに後方支援、ロジスティックスの問題である。しかもこれらの多くは、事態が悪化する前、そのようなシナリオが描けた時点ですでに様々なリスクを想定し、事前に準備しておくことが可能であったものばかりである。(要するに万が一、こうなった時にはこうするという予測に基づき、あらかじめ準備をしておくことが非常時には重要になる)
どんな形態の店を重点的に閉め、どのように保証するかも同様である。具体的に社会・経済活動に対し、どのように対処するべきか、具体的にどんな問題が起き、それに対してどのような支援が必要になるかは、具体的に企業を指導する経理・会計のプロやコンサルティングファームの方が明らかに詳しいから的確な答えが出る。
資金の不足に関してはクラウドファンディングなどIT系の企業やコンサルティング企業の方が詳しいし、実行する術を数多く持ち合わせている。
現状は、それら我が国の中に埋もれている数多くの様々な資源を生かすような組織的動きをリーダーシップをもって主導するような組織が存在していない。
大阪で防護服の代わりに雨合羽が必要だといえばすぐに10万着もが集まった国である。誰かが良いアイデアを出し、投げかければ形になるのは早い。不足しているのは、新型コロナウイルス対策という一つの目的のもとに整理された「場」である。
個々に見ていけば、マスクをつくりだした企業、消毒薬をつくりだした企業などバラバラに企業独自の動きはあるが、体系的に整理されていないからまとめるとどうなっているかわからないし、流通経路もバラバラである。
マスクに関しては、台湾などが合理的な形で国民に届くような仕組みをつくりあげているのに対し、日本では相変わらず中国人が何回も並んで買いあさっている、お客が販売員に悪態をつく、…などの報道がみられるから、製造の問題もさることながら流通の問題をどうにかすれば少しでも解決に近づけることができる。
SBG孫正義氏が月間3億枚のマスクを確保したように、商品の確保は企業に割り振ることで計算できる。
重要なのは、それを病院や公共性の高い仕事をしている人達にいかに優先して配布するかであり、一般の人たちには公平に届けるかである。
すでに小売店での販売に難しさがあるのであれば、年齢や家族構成、職業、健康状態など個人の特性に応じた優先順位(買う権利)を明確にし、健康保険証などでチェックするなど販売の仕組みも必要になる。
物事には、工程の前後関係があるものと、パラレルで同時並行して進められるものがある。今回の新型コロナウイルスに関する様々なモノ・コトの推移をみると、同時並行でできた後方支援の準備が、事態が進んである程度の結果が見えてから初めて動いたためにどうしても後手後手に回ってしまったということが数多く認められた。
プロジェクトマネジメントでは少なくとも複数のシナリオを描き、最悪の状況に対する準備に関してはあらかじめ準備をしておく。特に前後関係がなく同時並行でできるものはあらかじめ手を付けておく。仮に多少の無駄が生じたとしても、多くの場合その準備は後々無駄にならない。

いずれにせよ、現状は、感染を防ぐという医療分野の専門家チームだけですべてを賄い、あとは放置状態にあるようにしか思えない。医療分野の後方支援もノーコントロール、個々の行政の知恵・工夫に委ねているから、品質がバラけるだけでなく、考える時間や試行錯誤が無駄になる。まさにフランチャイズシステム、チェーンオペレーションのようなシステムが有効になる。しかもまとめてやった方が重複が避けられるばかりでなく、つくる際に必要な人材の質・量も確保しやすい。
体系的に実施レベルでの後方支援が行えるような多分野を総合的に扱える組織、IT、AI、ロボットなど各種デジタル技術やSNS、あるいは本業が止まっても現状に応用できるような技術や設備、人材を有する企業・個人など、現在ある資源をすべて洗い出し、それらを有効活用して状況改善が少しでも進むようなプロジェクトマネジメントができるプロ集団が必要である。
仮に現在ある技術、設備、人材などの資源とそれを現在困っていることに使うためのアイデアが分からなければ、広くSNSで情報やアイデアを募ればよい。
こんな事態に有用な資源を埋もれさせておくなどもったいない。生かす知恵とともに「場」、そしてそれを動かす組織が必要である。

新型コロナウイルスと正常性バイアス(normalcy bias)  ⋆bias 偏見、先入観、思い込み

3.11東日本大震災から月日が経ち、正常性バイアス(normalcy bias)という言葉もほとんど聞くことがなくなった。
正常性バイアスは、災害時に被害を大きくする要因として注目されている人間の意識のことである。
もともと正常性バイアスは、一々些細なことに反応しないようにする心の安全装置の一つとも説明されるが、「まだ大丈夫」「まさかそんなことは起こらないだろう」という気持ち=油断、自分に都合の良い解釈が被害を大きくする。
さらに、そこに多数派(集団)同調バイアス(majority synching bias=迷った時に周囲と同じ行動をとる)が加わり、正常性バイアスと同時に起こると一層被害を大きくすることが指摘されている。(要するに、みんながやっているから自分も…という安易な意思決定の仕方である。責任はどこにもないから、何か起こっても誰も悪くない?という、誠に無責任な、ある意味日本人的な状況といえる。)

そこで新型コロナウイルスへの対応である。
誰も小説や映画に出てくるような、こんな状況が実際に目の前で起こるなどとは思わなかった、あるいは今でも思っていないというのが正直なところだろう。
武漢、イタリア、スペイン、ニューヨークなどの惨状をテレビで見ても、まだ日本で実際にそんなことが起こるはずはないと思っている人がたくさんいるはずである。
悲惨な状況にある海外で実際に働く医師たちの取材・警告ビデオもテレビで流れることが増えているが、それをテレビで見ているのは自宅にいる人ばかりだから、関係ないと思っている人たちにその情報はおそらく届いていない。
どんな場合でも言えることだが、大多数の人と外れて行動している人たちは、情報のルートや量、質も異なる。情報が違っていることが認識を違わせているということだろう。

3月の連休の緩みは明らかに政府の間違いといえるが、緊急事態宣言が出ても商店街や潮干狩り、鎌倉などの様子を見れば、多くの人たちが正常性バイアスの真っただ中にいることは確かだろう。
感染し、回復した人たちのインタビューを聞けば、明らかに事態を軽く見ていた、ナメていた、反省しているといった何とも言えない気持ちが伝わってくる。
分からないから、可能な限り、想定できる以上に注意を払うのか、分からないから仕方ない、その時はその時と安易に考えていつも通り行動するのか、その違いは大きい。
ただし、新型コロナウイルスに関しては「分からない」のではなく、もう海外の様子などから多くのことが分かっている。
分からない人たちは、その情報を知らないか、あるいは正常性バイアスの中にいるかのどちらかである。ただし、その人たちはいずれ自分が加害者になる可能性があるということまでは認識していない。(都会を離れ、地方に疎開するという人たちも同じである)
自分の勝手で感染した人と必死になって医療現場で働いてが感染した人が、どちらも同じに扱われることは不公平だし、許せないという批判もある。
物事の道理、道義上の問題である。
今一度、状況を冷静に見直す必要があるだろう。

働き方改革 ???

新型コロナウィルスの影響からテレワークが注目されている。働き方改革が注目されていたこともあり、これを機会に一気に仕事のやり方が大きく変わるのではという期待もある。ただし、専門家の見方は一時的な避難で終わるのではと、なかなか厳しい。
もともと働き方改革なるものが政府の肝いりでスタートしたこと自体に無理がある。
仕事の仕組み、やり方そのものが変わっていない現状を無視して残業をなくし、休みを取れというから、現場の混乱、聞こえてくる悲鳴は多い。
残業がダメなら家に持ち帰ってやるしかない。有休をとるといって家に持ち帰って仕事をやれば残業代が減る。単なる労働強化でしかないから現場への皺寄せは計り知れない。ブラックな状態が水面下に潜って固定化されればサービス残業よりもひどい状況が起こる。
そもそも仕事といってもルーチン業務から個別対応まである。機械的な処理が可能な定型業務・手続きから、個々の状況に応じて検討し、いろいろと調整しながらつくり上げなければならない仕事まで様々である。
また、同じ部署、同じ名前の業務をやっていても、人によって考え方、優先順位、仕事の手順・やり方が違うから、同じ課題に取り組んでいても結果に行き着くまでのプロセス、工数、アウトプットのレベル・精度などは違う。
自分でコントロールできる仕事もあれば、相手次第でコントロール不能な仕事もある。
もっとも重要な点を無視して、枠組みだけを提示してどうにかしろというのは、いかにもお役所的発想である。
テレビで専門家が「日本の商習慣」の問題を指摘していたが、そればかりでなく、それまで個々人がやりたいようにしかやってこなかった=言い換えれば、まったく標準化されることなく、個人の好き嫌い、得手不得手、慣習などに任されて放任、放置されてきた業務プロセス、やり方、手法などに全く手を付けないまま、枠組みだけをどうにか取り繕うことには、根本的に無理がある。
さらにPCが当たり前の時代になって完全に個々人の業務の手順、進め方、意思決定の仕方がブラックボックス化している状況を考えれば、業務の定義=目的・アウトプット・精度など、業務処理の論理から始まる一連のプロセスを整理しなければ働き方改革なるものの実現は難しい。
そもそも「業務とは何か」という最も基本的な定義が整理できていないケースは多い。
ゴール(目標・方針・アウトプット・精度など)が明確になっていないケースやプロセス・手法などが明確になっていないケースでは個々人の志向、能力、スキルレベルなどに応じてあらゆるモノ・コトがバラけてしまう。
もともと業務自体は目的に対して手段が体系的に位置づけられ、それらが組織に対して割りつけられるという形で体系化されるべきものである。
個々の手続きは、目標に対して情報収集、分析、総合(検討)、評価(基準)、決定(判定基準)、文書化というプロセスを経る。
身近な例が、ある目的に対する情報収集やデータ分析だろう。目的に応じてどんな情報、どんなデータが必要で、それらはどこから入手するか、…などは、たとえ定型的な業務であっても、経験や能力によって変わってしまう。
Excelによるデータ分析一つとっても、どんなデータを用い、どんな加工をして、どんな見方をすれば、状況がよく分かるのか、データ分析に関する経験やスキルレベルで結果は大きく変わる。しかも同じアウトプットを出すのにExcelの処理方法は複数あるから、スキルが高い人と低い人では時間や手間に上下何十倍もの大きな差ができた上に結果や精度にまで影響してくる。スキルレベルの違いが大きく影響する。
分析ばかりでなく、企画の立案などクリエイティブな仕事についてもまったく同様であり、引き出しの多さ、システム的な思考の違いは如何ともしがたい。
特にモジュール化(ブロック玩具のように個々の要素を標準化し、それらを組み合わせることで様々な形をつくり上げる)を前提とする場合と、ゼロから全てをつくり上げるのでは手間、時間の違いは桁違いである。

多くの業務がブラックボックス化している現状を考えると、働き方改革とはいってみても、個々人の仕事のやり方、判断の仕方まで踏み込んで整理することがないまま枠組みに無理やりはめ込んでつじつまを合わせてしまうことになる。
業務コンサルの現場では、使用するフォーマット(使用する情報やデータを指定)や使用データ、処理手続き、見方・検討の仕方など一連の意思決定プロセスに関係する手順と手続きを整理する。
実態の把握をするために、現状使っているフォーマットを集め、手続きの仕方を確認することもあるが、組織内で行われている重複(多くの人が同じ情報収集やデータ分析を重複してやっている)や無意味な手続きを確認する。
多くの場合、個々の業務を現状分析し、改善するよりは、モデルとなる業務システムを当てはめて全てをモデルに合わせてもらうところからスタートした方が明らかに早い。
処理手続きを標準的なものに限定し、そこでのデータ処理にはExcelなどの標準フォーマット(いわゆる計算図表)を設定して配布する。そうすることで使用するデータも標準化でき、ほとんどの処理作業がコピペで済むことになる。
イレギュラーについては、別枠で対応し、必要に応じて標準的なシステムを修正してそれを標準モデルとすればよい。
とりあえず、標準的なこと以外はやらないようにすれば、すべてが単純化できるし、データ処理もExcelなどの標準フォーマットへのデータのコピペで結果を導くことができる。データの読み方もマニュアル化すれば、個々に考えて判断する必要がなくなるから短時間で済み、精度も安定する。
実は個々に教育をするよりは、全員に標準的な仕組みを踏襲させるようにした方が全体のレベルを上げるのに早いだけでなく、一度に多くの人を一定レベルにまで引き上げる教育効果もある。
本質は業務システムに関する設計思想であり、個々の能力、特性を生かそうとするのであれば、いかに無駄な作業を省いて簡素化するかである。もちろん、情報システムのレベル、精度も重要であるが、それも業務全体に対する設計思想で決まる。
人の能力や機械の性能が企業の財産であることを考えれば、それらを生かすも殺すも設計思想次第である。
働き方改革をきっかけにいま一度根本から見直すことも必要だろう。