論理が違うと議論はかみ合わない

「論」は物事の道理を整理したもの、「理」は物事の道理、要するに「論理とは物事の道筋を整理したもの」だとすれば、かみ合わない議論の多くが、前提が違っていたり、「論」や「理」が違っていたりする。
最近では、3月3日の石原元都知事の記者会見だろう。
小池都知事は、あくまでも「ファクト(事実)」が知りたいと言い続けているのに対し、石原元都知事はファクト(事実)ではなく、自分の立場を言っている。
途中からあまりひどいのでテレビを見るのをやめてしまったが、一番分かっていないのは、たぶん質問に当たった記者達だろう。
質問と称して、自分の意見を言う、感情的に中傷する、石原元都知事を責める(別に石原元都知事を擁護するのではなく、記者達は質問することはできても、感情的に公の場で人を責める権利があるわけではないから、どこかに勘違いがある。単純に不思議である。)、…。
記者会見が限られた時間で行われることを考えれば、質問は順を追って事実を積み重ね、実際にどのようなことがあったのかを解明するように組み立てなければならない。あるいはキーになるピースを見つけるための質問が行われる必要があるが、おそらく、そのような仮説を持たずに会見の場に臨んでいるのだろう。
事実を積み重ね、構造やメカニズムを整理するには「質問術」が必要になる。質問の仕方一つで答えが変わり、必要な答えを積み重ねていくことで全体の構造やメカニズムが見えてくる。感情的に攻めれば、相手も感情的に対応するから、論理とは全く異なる世界に迷い込んでしまう。
ディベートなど論理を戦わせることは、少なくとも、物事を報道する立場にある記者にとっては最低限必要な素養のはずだが、残念なことにどうも記者会見を見ている限りでは、そのようには考えていないらしい。
多くの勘違いが週刊誌的には面白い状況をつくり出すが、これではいつまで経っても「ファクト(事実)」にはたどり着けない。どのような経緯によって、物事が起こっていったのかという最も重要なことが解明されるには多くの時間を要することだろう。

多くの場面で、論理の違いは問題を引き起こし、また問題解決を難しくする。
一見すると同じに見えることでも勘違いすると、いつまで経ってもゴールにたどり着くことができなくなる。
例えば、上位目的と下位目的のレベルを反対にすると、目的と手段が逆転してしまうし、基準を間違えてしまうと判断は正反対になる。
シンプルに論理を整理すれば単純なモノ・コトも、ひとたび論理を間違えれば、状況は錯綜し、複雑に絡んだ糸はほどけなくなり、迷路に迷い込む。
いずれ学校でも子供たちに問題解決について教える時代がやってくると思うが、問題が定義できないままに、いくら問題解決、問題解決と唱えてみても、何も生まれない。
何年やっても世界に通用しない英語に多くの時間と費用を割いているのと同じことがプログラミングをはじめ様々なところで起こってきても不思議はない。
DIAMOND onlineに「PDCAを問題解決手法と教える高校教科書の危うさ」(三谷宏治:K.I.T.虎ノ門大学院主任教授2017.03.02)という記事が出ていたが、知らない人が何も分からないまま(分かったつもりになって)進めると無知・間違いが拡散してしまう。
帰納法的に具体と抽象の両方を知ることのない人が、机上の知識という抽象の世界だけで組み立ててしまう危険性がここに凝縮しているような気がする。演繹法を否定するつもりはないが、演繹法しか知らない人達の危うさは認識する必要がある。

まずは何が問題か整理することから始める必要があるが、それにはキチンと問題を定義することが重要である。
問題を定義することなく、ただ感情に流されているだけでは、ただの主張や非難に過ぎず、議論=「議;意見を出して話し合う」「論;物事の道理」にはならない。
物事の道理はシンプルであるから、変に迷路に迷い込むことがないように「ものの見方・考え方」を整理することから始める必要がある。

 

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