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「アイテム数を増やせば、あるいは減らせば売上は上がる」という不毛な議論

「商品を増やせば売上は上がる」あるいは「アイテムを絞り込めば効率が上がる」、誰もがもっともと思える話だが、そこにある法則を理解しなければ意味のない不毛な議論と言わざるを得ない。
先日も、Webでそのような記事を見かけたが、もっともらしく聞こえてもあまり意味があるとは思えない。
そもそも、多い、少ない、売れる、売れないといっても、別項「カラスの話」に書いているように、それを判定する基準がなければ、主観的にそう思うと主張しているだけにすぎない。一見もっとらしく思えるかもしれないが、よく考えてみれば全く科学的ではないし、論理的でもない。
アイテム数を増やす、商品量を増やす、フェイス数、あるいは目に見える商品の陳列面を増やす、類似商品を集める、比較購買しやすい商品を集める、何ヶ所にも多ヶ所展開する、什器の見やすい・取りやすい位置に陳列する、レイアウト的に買いやすい位置に配置する、…等々、単にトータルとしての商品アイテム数や商品量、フェイス数などの問題だけでなく、商品構成を含めた様々な要素に関係する問題を整理しないとこのような結論は導けない。ある意味、表面的で全く意味のない不毛な議論ということになる。
同様にPOSデータを用いて売れ筋、死に筋などと安易に決めているケースは多いが、POSデータには、レイアウト、什器の陳列位置、フェイス数、在庫数量、類似商品・競合商品との位置関係、自店や競合店の販促などの要素は入っていない。救世主のように思われているID-POSも基本的には何も変わらない。
例えば、20フェイス、在庫数量200の商品の売上数量が20の場合と2フェイス、在庫数量20個で売上数量10個の商品があったとすると、どちらが「よく売れている」と判断するべきなのか、売上以外の要素を加えてみればみるほど=情報の精度が高まるほど判定することは難しくなる。もし、同じ条件で販売数量を比較したらどうなるかを考えれば、まずは販売効率のよい商品を広げ、逆に悪い商品を狭めて測定し、トータルとしてどうなるかを確認する必要がある。
また、同様にA、B 二つの商品があり、同じ品種の最も売れている商品Cが週販50に対し、両方とも週販1個だとして、AはCで代替えが利く類似品、Bは全く異なる規格・機能の商品でCでは代替えが利かない商品とすると、A、Bを週販1個だから両方とも死に筋と同じレベルで評価してカットの対象にするだろうか?
代替えが利く類似商品Aはなくても商品構成上問題はないが、代替えが利かないB商品がなくなれば商品構成としては明らかに選択肢が狭まる。売れるか否かという問題とは別に商品構成という店としてのポジションに影響する問題である。

商品構成は関係する要素が多く、奥が深い。単にグロスのアイテム数や商品量、売場面積、什器本数などだけでは評価できない。
そう考えると、本質を無視した議論をしてもあまり意味があるとは思えない。不毛な議論よりも精度の高い状況を如何に実現するかに時間とエネルギーを費やした方が有効である。

設計思想をどう評価する?

3月になって、東日本大震災を特集するような大地震を扱う番組が増えている。大きく分けると、地震にフォーカスするもの、津波にフォーカスするもの、原発事故にフォーカスするものである。
地震、津波は自然要素とそれに対応する人間の問題であるが、原発事故は100%人間サイドの問題である。
1番の問題は、人間の手に負えないものをたくさん作ってしまったことだろう。
核のゴミを処理する仕組みを確立しないままスタートしたことは、大元にある「設計思想」そのものが全く問われなかったことになる。

「設計思想」は、何かモノを作る上でその根幹をなす基本的な考え方であり、この設計思想を間違えれば、どんなに素晴らしい技術を用いても出来上がったモノは似て非なるモノ、意味も結果も異なる。
原発について調べると、すぐに「トイレのないマンション」という言葉に出会う。核のゴミを処理する満足な仕組みが確立されていないにもかかわらず原発をたくさん稼働させてしまったことは多くの政治家、研究者、関係者・関係組織が認識していたはずである。しかし、その実態、リスクを公表し、国民に問うこともせずに実行に移し、しかもその状態は長年放置されたままである。福島以前にも事故は多かったし、福島では動かないロボットなど高額の投資をしながら実際の事故では使えない、全く役に立たない周辺設備が明らかになっていた。

また、福島の原発事故によって、電源がダウンした際の予備の仕組みを電源に頼る設計になっていたことがはじめて分かった。普通に考えれば、電気の予備は電気以外の原理に求めるはずだが、なぜかそうはなっていなかった。過信なのか、単に無知なのか、分からないが、そこまでのチェックがなされていなかったことは残念としか言いようがない。
電車の予備を電車、自動車の予備を自動車では、線路、道路が使えなくなった時には全てが使えなくなる=実質予備がない状態になる。子供でも分かることである。
「想定外」という言葉も流行ったが、絶対、エラーを起こしてはいけないという完璧なリスク管理をしようとすれば、ありえないことだろう。放射能を撒き散らしたベントも同様である。
「想定外」というのであれば「想定とは何か」ということが研究されなければならないが、そのような話は聞こえてこない。
残念ながら、いま国内にある原発のほぼ全てが同じような設計思想、想定範囲内のリスク管理で出来上がっていると考えてよいだろう。そうである限り、同じことが繰り返される可能性は高いと言わざるを得ない。

IT、AIについても同様である。人間を排除するために設計されたものと、人間を生かす、補完するために設計されたものでは、もとに使われる技術が同じでも、そこから得られる結果は全くの別物になる。

残念ながら、どうでもよいような細々とした現象に対して、重箱の隅をつつくように細かく指摘する人はたくさんいるが、全体を俯瞰して本質をピンポイントで指摘する人はあまり見かけない。具体的で議論しやすいのかもしれないが、それで重要なことが隠れてしまうようでは返って邪魔だし、時間の無駄である。

現在の義務教育のように下から積み上げていくやり方と、ゴールを設定し、そこから逆算して各年代でやるべきことを決めていくやり方では、同じ6年・3年・3年・4年という年数を使っても結果は明らかに変わる。
筆者は、将来を考えれば、とうの昔に下から積み上げていく時代は終わった(省くもの、捨てるものを作らないと次から次へと生まれる新しい分野の知識が入らない、下からだと後で必ず積み残す)と考えているが、どうも長年続けてしまうと、将来のことが見通せず、頭の切り替えができないのだろう。
シンギュラリティSingularityが言われるいま、このような状況にあることは大いに問題とされるべきだが、「教育」を神聖なものとして村社会が形成されると、外からは見えにくく、触れにくく、干渉できない体制、状況が出来上がってしまう。

対象が大きいか小さいか、昔からあったかどうかなどとは全く関係なく、客観的に見て設計思想が正しく評価されるような仕組みを確立する必要があるだろう。そうしないと、一部の人達が思い込みでやっていることによって、全体がとんでもない方向に導かれ、取り返しのつかない状況に陥ってしまう。

大きな課題である。

MEGA ドン・キホーテ UNY 大口店 に行ってきた。

3月11日(日)、ダブルネームの業態転換 1 号店とうたったMEGA ドン・キホーテ UNY 大口店へ行ってきた。いろいろな意味で業界は注目していたのかもしれないが、残念ながらどこから見てもMEGA ドン・キホーテでしかなかったというのが、正直な感想である。
仕事柄いろいろな店を見る機会は多いが、もしここを見て原稿を書けと言われたら、かなり困るだろう。
強いて言えば、粗利ミックスを含めたB1食品がいまひとつといったところだろうか。特に天候の関係から野菜が高騰しており、どの食品スーパーも商品確保に四苦八苦しているが、それにしても鳴り物入りの店が....といった感じである。すでに筆者の家の近くでは、野菜は商品、価格ともかなり回復している。それと比べるとレベルが気になる。近くにちょっと気の利いた店があれば、お客はそっちに行くだろう。そう思って向かいにあるライフも覗いてみたが、同じライフでも東京の良い店と比べると残念なレベルだった。

店のコンセプト、商圏設定を考えると生鮮の位置づけはどうなのだろうか。ドンキのノンフードが商圏を広げ、食品は小商圏・高密度なのか、それとも生鮮も広域商圏が取れるレベルにするのか、設定の仕方によって品揃えも価格も根底から変わる。

大口駅が横浜駅から2駅と近く、周辺にはイケア、ららぽーとなど多くのSC、店舗があることを考えれば、いずれも小商圏、高密度という設定なのかもしれないが、場合によってはノンフードよりも生鮮食品の方が商圏を広く取れることは意識する必要があるだろう。

生鮮がよくなり、ノンフードと同等以上に商圏が取れるようになればダブルネームの業態転換は成功するだろうが、いまのままでは、いずれただのMEGA ドン・キホーテに収束して終わってしまうだろう。
食品補強でユニーが加わったはずなのに...というのが正直な感想である。
ユニー頑張れ‼なのか、ドンキもっと洗脳しろ‼なのか、分からないが、思想、手法を変えない限り、このプロジェクトのゴールはなかなか見えてこない。
やっぱりGMSはダメなのか、と思わせないような結果を期待しているのは筆者だけではないだろう。

商品と商品構成の科学

◆「商品とは何か?」を整理する
商品が持つ要素・意味を整理すると次のようになる。
➀物理的な形 ⓶機能(具体的な働き) ⓷所有・使用することで得られる付加価値(効用・満足度) 
➀物理的な形は⓶機能を達成するための原理を具現化するための構造をベースとして作られるから、大きさや形状、素材、構造、作り方など、この2つの間には明確な関係がある。
⓷付加価値は商品の所有、あるいは使用によって得られる効用、満足度であるから、客観的な尺度と主観的な尺度があり、人によって評価が変わる。
これと関連してコスト価値、使用価値という考え方がある。
コスト価値は、モノがつくられる過程で投入されたコストの分だけ価値があるという考え方であり、使用価値は、使うことによって得られる効用、満足度の分だけ価値があるという考え方である。
作る側と消費する側、それぞれの立場から見た時の価値ということができ、この二つがバランスすることで、モノと貨幣の交換が成り立つ。それが交換価値ということになる。
つまり、いろいろな商品がつくられ、流通して消費されるが、個々の商品は、これらの意味を前提として流通していることになる。

◆商品構成
商品構成は、前述の商品を「構成する」ことによって成り立つ状況である。
構成には、目的に従って、様々な要素を集め、一つの統一的な全体に総合するという意味がある。したがって、商品構成には、「目的」「構成要素」「構成要素の選択基準」「総合する上での比率や位置づけなどの規則・法則」が必要になる。
そう考えると、多くの店舗、売場で、商品構成ではない、昔、ホームセンターでよく言われた「品集め」状態にあることが分かる。
商品構成には思想や理屈、技術があるから、厳密にとらえようとすると非常に難しいが、それだけにキチンと理解し、使いこなせば、こんなに面白いこともない。
科学的な法則によって、売上や粗利率、商品回転率などが変わるから、簡単には無視できない重要な要素である。
しかし、残念ながら、この技術、法則性は普遍化されておらず、一つの法則として伝承されることもない。
チェーンストアが生まれてから半世紀を優に超える時間が経っているが、科学的研究がなされてこなかったために、個人の経験・ノウハウとして時間の経過と共に消えていってしまう。
多くの店舗、売場で先人が経験した失敗を何度も繰り返すというムダが発生し、大きなロスが生まれている。

デジタル技術が発展し、様々な消費者の行動がダイレクトに測定できるようになったことで、あたかも科学的なマーケティングがなされているような錯覚に陥っているが、残念ながら仮説のない所で結果だけを計測していたのでは、モノ・コトの因果関係及びその結果が生まれた環境条件等までは知ることができない。
POSがID-POSになっても使えないのと同様に、個々の結果をいくら集めてみても因果関係は分からない。
商品構成は、商品が売れる理由=因果関係であるから、そこを科学的に解明しない限り、「何故、その商品が売れたのか、売れなかったのか」までは理解できない。
科学的「論」「方法」を間違うと、大掛かりな設備と膨大な費用、時間を使っても、結果、結論はは科学的ではない。
たくさんのデータを集め、高度な数学、デジタル技術を使って処理したからといって科学的であるということにはならないから難しい。

商品がたくさんあると、似たような商品で価格が違うケースが出てくる。単純に考えれば安い商品の方がよく売れるように思えるが、必ずしもそうはならない。高い方が売れる場合もあるし、高い商品、安い商品の両方とも売れずに中間に位置する価格の商品の方が売れる場合もある。
商品が売れるかどうかを決定づける要素は単に価格だけではなく、ブランドやCMなど商品によって様々に変わるし、売場のつくり方(陳列場所、フェイス数、在庫量、演出方法)、売り方(試食、試供品配布、タッチアップなど)、POPのつけ方ひとつでも変わることがある。
いろいろなケースがあるから、それらを全て網羅して法則を見出すことは難しいと考えるのかもしれないが、そのくらいの知恵がなければ、商品構成という高度な技術を使いこなすことはできない。
筆者はクラシフィケーション(classification)という概念を用いて説明しているが、古くには製造業が多品種少量生産に対応するためにGT;Group Technologyというシステム的手法を開発している。たくさんある異なる性質のものを、類似する要素によってまとめ、処理することで効率化を図るというものであり、この手法を用いれば、多くの異なるものを整理することも容易になる。

デジタルの時代であれば、それを使いこなす知恵が一層必要になると考えるべきだろう。

論理が違うと議論が噛み合わない-2

相撲界の「日馬富士暴力事件」は、いつの間にか「貴乃花問題」に変わってしまった。
一連のプロセスを見ていると、実に日本人らしいと思えてくる。
特にテレビで繰り広げられる様々な解説者、ゲスト、MCの仕切り方を見ていると、どこかコミュニケーションゲームを見ているようで、人間社会の本質を見ているようである。
あるテレビ番組で、子供たち数人にスマホを渡して自由にLineをやらせ、どのように進捗するかを観察するという企画を見たことがある。
テーマがないから、はじめはモジモジしているが、そのうち次第に会話が進むようになる。しかし、ある時、つまらない一言から、場の雰囲気は一変し、言葉も荒れてくる。顔が見えない言葉の世界ということもあるだろうが、チョッとしたニュアンスの違いから、言葉が新たな言葉を生み、感情の世界を突き動かしていく。

全く同様なことが、今回の暴力事件を扱うテレビなどのマスコミ報道、ゲスト、解説者、さらにはそれを見た視聴者のSNSへの投稿などでも起こっている。
まるで状況は子供たちのLineの企画と一緒といってもよいだろう。
ほとんど情報を持たないに等しい人達が、限られた情報、しかも確実に検証されてもいない限られた情報を頼りに自分の意見、感想を口々に言い合い、そのうち、感情的な好き嫌い、自分の判断基準、一般論としてのアルベキ姿によって、いつの間にか「日馬富士暴力事件」が「貴乃花問題」へと変わっていく。
唯一、論理的に状況を整理していたのは、弁護士の八代英輝氏くらいだろう。
加害者と被害者、現場にいた当事者・同寮と現場におらず間接的に事態を知った貴乃花、加害者側、被害者側という前提を置いた上での辞任と降格の意味の違い、…など、判断する上で状況が客観的に見えるように一つ一つ要素に分けて整理していた。
面白いのは、「場」全体が日馬富士の件はどこかに行ってしまい、とにかく貴乃花が悪いといった雰囲気になっているのに、八代英輝氏が状況を一つ一つ整理していくと、なぜ貴乃花が悪いという結論になるのか、皆が分からなくなってしまうことである。おそらく、詭弁、騙されているような気分になるのだろうが、論理と感覚の違いし大きい。
感情的な指摘とは別に、事実はどうかという全体的な構図を整理することの重要性を示していたと言ってもよいだろう。ただし、どれだけの人がそれを感じることができたのかは分からない。
情報量が偏っているからこそ、客観的に全体を整理することが重要だが、何故かそうならないのが一般社会なのかもしれない。

そこで「論理」が重要になる。
客観的事実を道筋に添って積み上げていくことで一つの結論へと導いく。
そういえば、野党が森友問題に夢中になっていた国会で、もう一つ自衛隊や米軍基地周辺の土地が外国資本に買い占められても、それを規制する法律がないということが取り上げられていた。安全保障上、非常に重要であるし、他国では考えられないことだろうが、マスコミもほとんど取り上げていないし、大臣の答弁も検討中という曖昧なものだったように記憶している。
北海道の土地(山だと水源も含まれる?)がどんどん外国資本に買われていることや、何代にも渡る相続によって、所有者が分からない土地が九州の面積ほどもあるという話など国土に関する問題は驚くほどある。将来を考えると重要なテーマはたくさんあるが、なぜか国会もマスコミも優先順位が違うようである。
森友問題が10億円とすれば、国会のコストは1日3億円だというから、森友問題のためにはるかに多くのコストが使われ、しかも喫緊の重要案件がストップしていることになる。国民の税金が、、、といいながら、はるかに大きな税金がムダに使われていることは誰も指摘しない。「世論」「正義」を振りかざされては、それを指摘することも難しいのかもしれないが、一番質が悪い状況に陥っていると言ってよいだろう。

日本が抱える問題は急激な高齢化と人口減少、過疎化を含めた前述のような国土問題、廃炉にしても核のゴミを処理できない原発問題、農業従事者の高齢化や法整備のミスマッチで身動きできない食料問題など、数え上げたらキリがない。
テレビである解説者が言っていたが、北朝鮮=拉致問題、日銀副総裁問題など目の前の課題を無視するのではなく、優先順位を明確にして別のところでやらないと、国際、経済問題など、多くのモノ・コトがガタガタになる。
少なくとも後ろ向きな足の引っ張り合いばかりでなく、現在、分かっている課題への対応をしないと日本の将来は危うい。野党、マスコミも政権を引きずり下すことに血眼になるのなら、最低限、その後のビジョン、その後現状より良くなるということを担保しないと、あまりにも無責任である。
もし、それ無しでやっているのであれば、ただ壊しただけで終わり、また失われた20年が始まるだろう。
東日本大震災の時と同様、大変な思いをするのは国民だから、マスコミも冷静な報道が必要である。東電の責任を追及し、賠償を突き付けた当時の政権は、その賠償が国民の税金から出ることには一切触れていなかった。詭弁ととらえられても不思議はないが、何故かそのことを明確に指摘する声はない。
尖閣の時にも、日本には名前もついていない無人島がたくさんあるということが発覚したが、その後談は全く聞こえてこない。
その場だけ騒いで後は忘れてしまうから、いつまで経っても日本の課題は解決しない。
「正義」を振りかざし、現状を否定するのであれば、その後どのように修正するのかという具体案を明確にする責任がある。一見、正論に見えることが必ずしも現状をよくすることにはならないことは、民主党政権の原発事故後の処理を見ればよく分かる。
スーパーコンビュー開発に対する「二番じゃダメなのですか⁈」という認識のレベルがある意味全てを表しているのかもしれないが、ITの進化=経済的支配が実質的に戦争に変わる意味を持ちだしている現状は一つの判断ミスが将来の日本の姿を大きく変えてしまう。

長年、人口問題を調べているが、人口問題だけではなく、分かれば分かるほど、この国の将来が心配にである。
マスコミのリーク合戦とそれに乗る政治家、さらにそれを垂れ流すマスコミ。フェイクニュースとは思わないが、世論を誘導していることはよく分かる。
少なくとも、週刊誌的な情報をこれでもか、これでもかと垂れ流すのであれば、未来の年表 人口減少日本でこれから起きること (河合 雅司著 講談社現代新書)ではないが、日本の置かれている状況、課題をきちんと整理し、それに関連するニュースをわかりやすく報道するような前向きな姿勢が必要だろう。

情報過多の時代であるから、情報発信者の責任はそれなりに大きい。受け手としても冷静に論理を組み立てれば、優先順位、選択肢なども客観的に見えてくる。
国民には知恵が求められる。

ヤフーの週休3日、何十年か前にはイズミヤでも週休3日は検討されたことがある

ヤフーが週休3日にするという記事が出て、一斉にマスコミが騒いだことがある。世は「働き方改革」で大騒ぎだが、重箱の隅をつつくような非生産的な国会では、それ自体の働き方(非生産的なことしかやっていない)を問うた方がよいのでは…と思えてくる。

何十年か前に、大阪のイズミヤでも週休3日を真剣に議論していたことを思い出す。
生鮮売場に社員はチーフ一人しかいないのに、週休3日をどのようにして実現するのか。パートさんに発注をしてもらうなど、仕事の分担、仕組をどのように変えればよいのか、いろいろと議論し、実験もしていた。
パートさんでも能力的には大きく変わらないから、やってみれば十分に成り立つのだが、職位、身分の違いがネックになっていた。

何十年かを経て、片や週休3日の議論、もう片方では人手不足でどうしようもないという状況が顕著になっているというから、困ったものである。
今後、ロボットへの置き換えも急速に進むだろうが、考えるべきは、業務・作業の仕組みが、昔から大きく変わっていないことである。別項でも書いているように、ロボット化しても、ロボットは人間の動作を前提にしているから、機械に置き換えただけで、飛躍的に生産性が高まるとは限らない。(計算上は人が不要になる分上がるが….)
すでにIE(Industrial Engineering)やQC(Quality Control)などといって、通じる人も減ってしまったが、人手不足といっている多くの現場で、業務・作業の単純化、効率化は進んでおらず、無駄が多いことは見過ごされている。生産性が上がらないのも無駄が多いまま運用されているからだから(ロボットに置き換えても同じ)、基本的な所から見直していく必要があるだろう。
もう一度オールドIEの理屈=効率化の原理原則から見直す必要があるのかもしれない。

たかがマニュアル、されどマニュアル ver.1

マニュアルとは何か、どう使い、何をしたいのか、その目的は、…?
マニュアルに関する本質的な理解ナシに、マニュアルに頼りすぎると現場に大きな混乱を招く。
昔、ある大手企業の人事担当者の研修で「マニュアルは資格試験の前にしか見ることはない」「マニュアルを使おうと思えば、そのためのマニュアルが必要だ」と自嘲気味に話していたことを思い出す。
基本的な理解、使い方に関する明確な思想ナシに机上だけで考えて作るマニュアルは、多くの弊害をもたらす。

理由はいくつか考えられる。
一つは現場の実態を知らない人が机上の理屈だけでつくるマニュアルは、現場で実際に起こるか否かに関係なく、可能性を理屈だけで考えて作るから、10年に一度あるか無いかという事象でも可能性があれば記載する。
基本や原理原則ではなく、個別の事象を発生確率ではなく、可能性の有無だけでリストアップしていくから、使うことではなく、作ることを前提とした可能性だけの化け物のようなマニュアルが出来上がる。
もう一つのパターンは、作る人の自己満足、「マニュアル作り」という仕事をした、完璧にこなしたという満足感を得るために百科事典のようなマニュアルを作ってしまうケースである。
つくることが目的の人にとって、アウトプットは精度が高く、誰の目から見ても素晴らしいと思える完璧なマニュアルがよいに決まっている。

しかし、売場マニュアルの目的を、新人に基本的なやり方を正しく教える、スタッフのレベルを一定に保つなど、基本、原理原則を定着させることとすれば、それ以上は必要ない。正しいやり方が定着した段階でそのマニュアルの役目は終わる。売場を起こる様々な事象は、あくまでも応用である。基本、原理原則をもとにその都度状況に応じて現場で臨機応変に判断すればよい。
売場の実情=少ない人員・限られた時間で回していることを考えれば、如何に正しいやり方、的確な判断が行われるかが重要になる。当然、周辺の細々したことはいらないから、ド真ん中=最低限必要なことが直感的に分かるような表現、まとめ方で作られている方が良いに決まっている。

いろいろなマニュアルを見ていくと、大きく分けて二つのタイプがある。
一つは基本、原理原則だけに絞って、考え方、目的、方法、起こりうる主な不具合と原因、基本的な対処法がまとめられたものである。
いたって簡潔で分かりやすいが、基本から外れた個別の状況については、基本、原理原則に照らし合わせた上で、その都度臨機応変に判断・対応する必要がある。
ある程度OJTができ、スタッフの育成ができる環境を前提としていると言ってよいだろう。

一方、考えられるあらゆるケースについて、一つ一つ事細かに記載されたマニュアルがある。前述のマニュアルを使うためのマニュアルが必要といった類のマニュアルである。
ここには基本、原理原則はなく、全てが個別に起こりうるケースに対応している。したがって、全てについて答えが書いてあるので、現場では一切判断せず、決められた答え通りにやることが求められる。
その分、項目数、分量は増え、まさにマニュアルを使いこなすには熟練やスキル、場合によってはマニュアルが必要になる。

どちらが良いか、一概に判断することは難しいが、前者が基本、原理原則をベースに応用を繰り返すことで習熟していく可能性があるのに対し、後者では、はじめから独自に判断することを否定されているから機械的に終わる。慣れないと短時間に答えにたどり着けない可能性もあり、類似のケースで微妙に違う場合などでは判断できずに返って混乱する。

以前、ある企業で現場作業を観察し、状況を確認したことがあるが、そこではほとんどの人のやり方が自己流だった。マニュアルはあるというが、ある事すらも周知されておらず、あることは知っていても、どこにあるか分からない、見たことがないというスタッフが多かった。
問題は、勤務時間帯のずれによるスタッフ間のコミュニケーション不足だった。
休日、休憩時間などが交代制であるため、同じ店舗、同じ部門に所属していてもスタッフ同士が顔を合わせる機会は少ない。休憩時間に仕事の話をすることはなく、仕事中はそれぞれの担当業務に集中するから、分からないことがあっても相談するような時間が取れない。
気が付けば、いつの間にか、アチコチで自己流が横行し、現場のレベルは低下していく。

マニュアルは、ただ作って配布すればよいのではなく、環境整備を含めた使い方、それによって達成しようとする目的まで全てをシステム的に構築する必要がある。
たかがマニュアル、されどマニュアルである。

楽しい売場、面白い売場を創ろう‼

売場の仕事は、毎日の単純な作業の繰り返しでしかないから、ややもすると機械的で殺伐としたものになる。まして、今では売場から人が減り、シフトの関係でスタッフ同士でも顔を合わすことも少ないから、同じ店舗、同じ売場で働いていたとしてもも「一緒に仕事をしている」という実感はなかなかわいてこない。
一人当たりの担当坪数などの指数で測ってみることもあるが、営業時間と勤務時間の関係を考えると、勤務時間、休憩、休日などすべてが交代制だから同じ売場、店舗に所属しながら、まともな会話もせずに1週間が終わることも珍しくない。
ある時、ドラッグストア店舗で実際の売場で行われている個々の作業レベルについて調べたことがある。
マニュアルもあることはあるが、細かすぎれば読まないし、基本しか書いてないと個別に解釈しなければならない。
そこで問題になったのが、ベテラン社員とのコミュニケーションの問題である。
営業時間が長く、週休2日で1日4-5時間のパート比率が高いと、分からないことがあって、たとえ訊ける人がいたとしても時間的にコミュニレーションを図ることができない。結果的に各自が職場の中で孤立した状態になり、分からないことは個々人がそれぞれで判断するようになる。
組織の決め事があったとしても、それがあることすら伝わらず、いつの間にか個々に判断したやり方がその店の中に定着していく。
個々に判断してやっている人たちは、いつまで経っても正しいやり方、理屈が分からず不安を抱えた素人のまま経験年数ばかりが経ってしまう。
多くの場合、このような店では店長は仕事のできる人、早い人に頼むことが多いから、仕事が早く、できる人はいつも忙しく、それ以外の人は何を、どうしてよいかわからないのに加え、指示もあまりないから手持無沙汰にしている。
それぞれがストレスを抱える難しい状況にあると、売場は殺伐としてくる。さらに売場に手が行き届かないから欠品も多く、乱れるから業績も悪化する。売場の殺伐感は一段と増すことになる。
売場が崩れていく組織の典型的なケースである。

一方、売場に活気がある店は全てが違う。
一つは、それぞれがやるべきことが明確でポイントをつかんでいる。作業のやり方、理屈、なぜそれは、そのようにやるのかという理由、目的が分かっているから無駄がない。
分からないことは、相談しながら考え、試し、修正するから、精度が上がるだけでなく、仮説、実験、評価・修正、理屈の普遍化という帰納法的なサイクルが自然と定着し、やることに無駄がなくなる。
成功は多くの効果をもたらす。
管理レベルが高いきれいな売場は、分かりやすく、欠品もないから業績が上がる。
その結果は、スタッフの「自分たちがこの売場をつくっている」というブライドにつながり、モチベーションが高まる。
指示がなくても、自分たちの目で見て問題点、課題を見つけ、さらなる高みの目標を設定して自主的に取り組む。
さらに楽しめる売場では、いろいろな試みがなされるから「お客にとっても楽しめる売場」になる。

最高益をとらえたソニー 復権の象徴としてAIBOを使ったプラットホームはどうだろうか⁉

◆ソニー復活 ?
5月23日、ソニーは経営方針説明会で、平井一夫社長が20年ぶりの営業利益5,000億円達成(2017年度グループ連結)に自信を見せたという。
この発表を受けて、過去最高益である1998年3月期 5257億円を超える可能性が言われる一方で、果たしてソニーは本当に再生され、この業績が今後とも継続していけるものなのか、と懸念を表す声も聞こえてくる。
たしかに、この20年の間にVAIO、ウォークマンなど、ソニーらしさを象徴するブランドは影を潜め、画期的とも思えた犬型ロボットAIBO、二足歩行型ロボットQRIOはチームもろとも消失した。(様々な状況については、日経ビジネスONLINE「オレの愛したソニー」にインタビュー記事としてまとめられており、参考になります)

振り返れば、かつてソニーはウォークマンという音楽プレーヤーによって若者のファッション、ライフスタイルを大きく変えるほどの影響力を持っていた。街中、通勤・通学、ジョギングなどのスポーツシーン、…等々、あらゆる場面に音楽を持ち歩くことを可能にし、消費者の生活シーンと音楽を融合させてしまった。
ところが、その後アップルは、iPod、iPhone、iPadなどの機器(物)をiTunesというアプリによって束ね、ソニーがウォークマンによって生活シーンの中に浸透させた音楽の世界全体をまとめ上げてしまった。
ソニーが一つ一つの機器(物)を販売していたのに対し、アップルは個々の機器とアプリによってプラットホームを構築し、音楽シーンと共に機器を持つ消費者全てに網をかけてしまったことになる(機器、ソフト、決済、個人情報、購買履歴、…等々)。

また、かつてソニーはAIBOという犬型ロボットでも、世界中を沸かせている。長年空想の世界でしかなかったロボットの実物を一般消費者の家庭の中に送り込んだことで、多くの人々は来るべき時代への夢を大きく膨らませることになる。
AIBOは、コアなソニーファンの心を鷲掴みにしただけでなく、生産、フォローが終了した後々までもオーナーたちの心にいつまでも深く愛され続けている。
部品生産が終了し、修理が難しくなったいまでも、元ソニーの技術者らが作った「株式会社ア・ファン(習志野市070(4014)7955)」が、自作部品や代用品、あるいは同社に送られてくる壊れたAIBO(献体)から抜き取った部品で修理をしており、ソニースピリッツを持つ元社員たちが使命感を持ってケアしている。
また、2015年11月19日にAIBOの集団葬も行われている。

ソニーがAIBOの生産をやめたのが2006年というから、わずか10年の間に時代は大きく変わり、現在ではAIやロボットが話題にならない日はないくらいに、次世代を支える重要テーマとして注目されている。
そう考えると、なぜソニーがロボット分野から手を引いてしまったのか疑問が残る。
ソフトバンクのPepperをはじめ、人と会話するAI、人型ロボットは珍しくなくなり、急速に進化し続けている。しかも当時と違って、iPhoneやPepperはオープンイノベーションによって、その使い勝手、技術、ソフトなど、あらゆる側面で日々向上し、進化し続けている。単独企業が単独機器を創り出すのとは本質的に違い、様々な視点からマーケットを拡大する知恵が集まってくる仕組みが支える進化である。
マーケットの中心に居続けることができるか否かを決定づける重要な要因といってもよいだろう。
現在は、AmazonのEcho(AIアレクサ搭載)、Google Home、Microsoft(AIコルタナ)、Apple(AI Siriベース)、HP(AIコルタナ)、Line、…等々、AIスピーカーの開発は目白押しであり、それらと個々の家電製品などをつなぐ上でオフィスや住宅向けOSが必要になったとも言われている。
今後、オフィス、住宅などにおける様々なシーンの中心をどこの製品・仕組みが押さえるのかという巨大マーケットの奪い合いが始まっているといってもよいだろう。

◆ ソニー復活の象徴が見えない…..欲しい!
このような歴史を見てみると、失われた20年といわれるこの間、ソニーはいつも初めに手を付け、可能性ある形を創り出しているにもかかわらず、その可能性を育てることができず、他社に大きなヒントと共に、大きなマーケットチャンスまでも提供してきたように思えてならない。
失われた20年は、モノ創りではなく、時代=マーケットが読めず、経営に負け続けた歴史といってもよいだろう。もし、ソニーがこれらのチャンスを有効に生かすことができていたなら、Appleとここまでの差はついていなかったと考えるのは筆者ばかりではないだろう。(ソニーの時価総額はアップルの約20分の一)

2018年3月期には、いよいよ最高益に迫るというが、残念ながらそこにかつての「ソニーらしさ」が感じられない。もし、それが本物の復活なのであれば、「ソニーらしさ」も同時に復活させてもらいたいものである。
筆者は、これまで新聞、雑誌などでも提案してきたが、ソニーの象徴の一つであるAIBOをプラットホームとした新規ビジネスを立ち上げて欲しいと考えている。(何年か前に新しい体制になり、様々な新規事業を検討しているということでソニーに提案したこともあるのだが…)
現在は、AIBOが生まれた時代とは比べものにならないほど、AI、デジタル技術、ネットワーク技術が発展し、また、消費者の状況も大きく変わっている。
高齢化・過疎化・非婚化が進み、全国には年齢を問わず一人暮らし世帯が溢れている。高齢者はペットを家族代わりとし、またアニマルセラピーなどの効用も認められているが、ペットの高齢化に伴い飼育を継続することも難しくなっている。
このような環境与件を考えると、AIとホームコントローラー機能を搭載したコンパニオンロボットニーズは非常に高まっている。高級おもちゃではない実用と癒しを兼ねたロボットへのニーズである。
仮にAIBOというソニーの象徴をベースにしてプラットホームを構築すれば、様々な点で多くのメリットがある。AI搭載は当たり前として、自分で動くことができ、小型である必要がないから多くの機能を搭載することも可能になる。ペットにも、話し相手にもなる情報端末であれば、少人数化した世帯の様々な生活シーンを幅広くカバーすることが可能になる。
各種センサー、カメラは一人暮らしの高齢者、赤ちゃん、ペットなどの監視や留守宅のセキュリティになり、コンパニオンとしての役割、話し相手、映像や音楽の他、情報端末として様々な機能を果たすことができる。自分で充電や自己診断、アップデートもできれば、面倒なケアはあまり必要ない。
ネットワークにセキュリティ企業を加えて安否確認や防犯、各種小売業、飲食業、給食センターなどを加えて日常的な物品、食事などの発注端末、医療機関を加えて健康状態の確認、テレビ電話での問診等も可能になるだろう。
もちろん、AIスピーカーのように家中の家電製品とつなぐこともできるから、機能をモジュールユニットに分けて組み合わせるような形になるだろう。
企画とアイデア次第で一大ビジネスに発展する可能性もあるが、問題は「物」ではなく、様々なサービスを提供する「システム」としてビジネスモデルに仕立てることである。
物創りへのこだわりを如何にその物を生かすための新たなシステムへとつなげるのか、ソニーの復活、新たな進化を占う上での重要な課題といってもよいだろう。

産業用ロボットを進化させよう‼AIに対応できる脳へのインプットのシステムを開発しよう‼

「産業用ロボットとは何なのか」を考える時、重要なことがいくつかある。
一つは、加工組み立て型工業が、装置工業化したことである。
当然、生産性に対する考え方、評価の仕方も根本的に変わるから、ロボットというものの活用が経営そのものを大きく変えることになる。
基本的に変わっていないのは、ロボットは人の動き=人が加工し、組み立てた部品を代わりに加工、組み立てることを前提としているために、その動きは、従来、人間がやっていた動きと大きく変わることがない。

これは、製品の設計(個々の部品・ユニット、加工・組み立て工程)が、人が加工、組立てることを前提としているからであり、部品加工、部品・ユニットの組み立て工程を前提とした形状になっているからである。
仮に3Dプリンターで作ればどうなるのかと考えると、設計、あるいは設計に際しての制約が根底から変わるから、製品の形状そのものも理想的なデザインやサイズに変わるはずである。
そこでロボットによる製造をどのように考えるかである。
動く速度、精度などロボットが持つ能力、可能性を考えた時、はたしてロボットは人間が加工、組み立てを行う動作、工程を前提とした動きしかできないのであろうか。
仮にロボットが人間とは異なる動き、加工ができるとすると、加工・組み立て工程=製品・部品設計そのものを変えることができ、それによって生産性が著しく高まる可能性もある。また、デザイン、サイズ、形状などが理想とするものに変えることができれば製品そのものの概念も大きく変わるから、そこからさらに発展する可能性もある。
今後、産業用ロボットが大きく進化する可能性があるとすれば、製造=加工・組み立てそのものを根底から変えるように製品設計の思想を変えることだろう。

同様にAIの進化の問題も人間との関係を考えると、現状は多くの点で矛盾している。
すでに情報処理能力は人間の能力をはるかに超えていることは明白であるが、人間がロボットを操るために多くのモノ・コトを学ぶ=インプット~処理(加工・分析)~理解~応用するには、残念ながら文字・画像・動画・音声といった情報形態しか持ち合わせていない。
コンピュータのようにデジタル信号を脳に直接入力・処理するようなことができない限り、人間の脳がインプット、処理できる情報量は生体としての認識能力を超えることはない。
「思考」の元となる情報の「量」と認識する「速度」に限界があることをどのように克服するかは大きなテーマである。
文字・画像・動画・音声よりも情報量が多い、あるいはそれらの情報を包括して処理できるような「概念」とでもいうような処理システムをつくり出さない限り、どこかで限界を迎えてしまう。
どんなスーパーコンピュータを道具として用いたとしても、そこで行われるプロセスから始まる一連の処理がブラックボックスでは「思考」そのものが追い付かない。
大きな課題である