設計思想をどう評価する?

3月になって、東日本大震災を特集するような大地震を扱う番組が増えている。大きく分けると、地震にフォーカスするもの、津波にフォーカスするもの、原発事故にフォーカスするものである。
地震、津波は自然要素とそれに対応する人間の問題であるが、原発事故は100%人間サイドの問題である。
1番の問題は、人間の手に負えないものをたくさん作ってしまったことだろう。
核のゴミを処理する仕組みを確立しないままスタートしたことは、大元にある「設計思想」そのものが全く問われなかったことになる。

「設計思想」は、何かモノを作る上でその根幹をなす基本的な考え方であり、この設計思想を間違えれば、どんなに素晴らしい技術を用いても出来上がったモノは似て非なるモノ、意味も結果も異なる。
原発について調べると、すぐに「トイレのないマンション」という言葉に出会う。核のゴミを処理する満足な仕組みが確立されていないにもかかわらず原発をたくさん稼働させてしまったことは多くの政治家、研究者、関係者・関係組織が認識していたはずである。しかし、その実態、リスクを公表し、国民に問うこともせずに実行に移し、しかもその状態は長年放置されたままである。福島以前にも事故は多かったし、福島では動かないロボットなど高額の投資をしながら実際の事故では使えない、全く役に立たない周辺設備が明らかになっていた。

また、福島の原発事故によって、電源がダウンした際の予備の仕組みを電源に頼る設計になっていたことがはじめて分かった。普通に考えれば、電気の予備は電気以外の原理に求めるはずだが、なぜかそうはなっていなかった。過信なのか、単に無知なのか、分からないが、そこまでのチェックがなされていなかったことは残念としか言いようがない。
電車の予備を電車、自動車の予備を自動車では、線路、道路が使えなくなった時には全てが使えなくなる=実質予備がない状態になる。子供でも分かることである。
「想定外」という言葉も流行ったが、絶対、エラーを起こしてはいけないという完璧なリスク管理をしようとすれば、ありえないことだろう。放射能を撒き散らしたベントも同様である。
「想定外」というのであれば「想定とは何か」ということが研究されなければならないが、そのような話は聞こえてこない。
残念ながら、いま国内にある原発のほぼ全てが同じような設計思想、想定範囲内のリスク管理で出来上がっていると考えてよいだろう。そうである限り、同じことが繰り返される可能性は高いと言わざるを得ない。

IT、AIについても同様である。人間を排除するために設計されたものと、人間を生かす、補完するために設計されたものでは、もとに使われる技術が同じでも、そこから得られる結果は全くの別物になる。

残念ながら、どうでもよいような細々とした現象に対して、重箱の隅をつつくように細かく指摘する人はたくさんいるが、全体を俯瞰して本質をピンポイントで指摘する人はあまり見かけない。具体的で議論しやすいのかもしれないが、それで重要なことが隠れてしまうようでは返って邪魔だし、時間の無駄である。

現在の義務教育のように下から積み上げていくやり方と、ゴールを設定し、そこから逆算して各年代でやるべきことを決めていくやり方では、同じ6年・3年・3年・4年という年数を使っても結果は明らかに変わる。
筆者は、将来を考えれば、とうの昔に下から積み上げていく時代は終わった(省くもの、捨てるものを作らないと次から次へと生まれる新しい分野の知識が入らない、下からだと後で必ず積み残す)と考えているが、どうも長年続けてしまうと、将来のことが見通せず、頭の切り替えができないのだろう。
シンギュラリティSingularityが言われるいま、このような状況にあることは大いに問題とされるべきだが、「教育」を神聖なものとして村社会が形成されると、外からは見えにくく、触れにくく、干渉できない体制、状況が出来上がってしまう。

対象が大きいか小さいか、昔からあったかどうかなどとは全く関係なく、客観的に見て設計思想が正しく評価されるような仕組みを確立する必要があるだろう。そうしないと、一部の人達が思い込みでやっていることによって、全体がとんでもない方向に導かれ、取り返しのつかない状況に陥ってしまう。

大きな課題である。

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