ホメオスタシス 恒常性の維持


ホメオスタシス(Homeostasis)は、日本では恒常性の維持と訳される。何かとてもとっつきにくい言葉なのでイメージしにくいが、我々にとっては非常に重要な機能である。
具体的には、暑ければ汗をかいて気化熱を奪い、体温の上昇を制御して一定の体温に戻そうとする、ケガをして出血すれば、血液が凝固して傷を覆い治癒(元の状態に戻す)を促す、外部から病原菌やウィルスなどが侵入すれば、白血球や免疫機能が働き、異物を排除しようとする、…等々である。

我々が遭遇するさまざまな変化に対応し、一定の状態に保とうとする機能がホメオスタシスである。
たしか中学か高校の授業で習ったと思うが、ある意味ではあらゆる物事に有効な機能であり、我々の思考を発展させる上で多くのヒントを与えてくれる。
非常に重要な機能である。

生物が、身体の異常を自ら修復し、元へ戻すだけでなく、場合によっては免疫のように外界からのストレスに対してより耐性を強化していくような自衛・防御的働きを自然に備わっていることは素晴らしいことである。
このことは、物事を考える際に思考&志向を「ポジティブ」に導いてくれる。
何らかの異常に対して、常に元に戻そうとする働きが自然に、あるいは本来的に備わっているのであれば、それをわざわざ拒否、否定することは意味がない。
ある意味、自然の摂理を受け入れ、物事の道理に従っていけばモノ・コトは無理なく進む。
経営やいろいろな仕組みを考える上でも同様に考えることができる。
何らかの目的を持って活動をしていれば、不都合が生じ、状況が変わることもある。状況を変えた原因を取り除き元に戻す、そして同様なことが二度と起きないように予防する仕組みを新たに組み込むことでレベルアップする。常に一定の状況が維持できるような修正機能を内包する。「一定の状況」は決して固定という意味ではなく、環境に対応し、必要に応じて変化(進化)するという意味である。
そんな仕組みを内包する組織、システムが理想と考えれば、目指すモノ・コトは分かりやすい。
物事、難しくする必要はないし、難しがる必要もない。自然のままが一番である。
現象ばかりに目が行くと間違える。
物事の道理、法則を中心に見るようにすれば、真理が見える。真理が見えると、物事はいたって単純であることが分かる。

 

 

消去法から考える地方企業の生き残り方

◆地方企業の課題
中小零細規模の地方企業が、限られた原材料、限られた設備、限られた人材(発想・アイデア)で商品開発しようとすると、類似する素材を用いて、似たような加工をした、似たような商品がアチコチの産地で生まれてしまう。現在の規模であれば損益分岐点が低いため、現状のままでも十分事業が成り立つかもしれないが、このような状況を長く続けていては将来的な展望が描けない。つまり、事業としての発展、成長は難しいと考えられる。
強くなるには、コア技術を確立し、生産性を高めて規模を拡大する必要があるだろう。

◆いかに生産性を高めるか
生産性を高めるには、IE、QC、VE、デジタルなど様々な管理技術が必要になるが、それと同時にある程度の規模拡大が必要になる。それなりに資本も大きくないと投資がしたくても対応できないし、状況を安定させることも難しくなる。
一つの選択肢として水平、垂直統合が有効だが、「地域」にこだわれば、よほど大きなシェアを持つ産地でないと水平統合は難しいから、どうしても選択肢は垂直統合に限られる。
ところが多少大きな企業が加わっても垂直統合では原材料供給、生産能力、販売能力など、いずれかの段階の能力に制約されてしまう(最も規模が小さいボトルネック)。
ここをクリアしない限り、垂直統合は上手く機能しないから、規模を拡大して生産性を高めることは難しくなる。多くの地方が行き詰まる構造的問題である。

◆地方を超えて水平統合する 業種を超えて機能統合する
ある意味、グローバル化を前提として考えた場合、規模を拡大することができれば、素材の生産、商品開発、製造、販売などを統合して効率化を図るとともに強化することも可能になる。
そのためには、①地域を超えた水平展開が有効だろう。類似する素材を持つ産地が国内で競合するよりは、共同して素材の生産、商品開発、製造、販売などがパワーアップすれば対外的な競争力は明らかに増す。知識、技術、経験、ノウハウ、人材など、様々な点で、国内で競合し合うよりも協力・分担し合う方が有効である。
また、②多品種少量生産で機能別工程が有効であることを考えれば、地域内で素材別に細かく分かれている企業を機能別に集約することも一つの方法として考える必要がある。
機能別工程は、素材の生産、製造、商品企画・開発、販売促進、販売、物流など、従来の業種別に細かく分かれていたものを機能別にまとめ直すことで、人材・知識・技術・経験・ノウハウ・設備など相乗効果を得ることができる。部分的にでも大量を実現できれば生産性を高めるも可能になる。
どんな業種でも全てを機能別にまとめればよいというわけではないが、少なくとも小規模のままバラバラに運営するよりは、部分的にでもまとめていく方が、メリットがあると考えてよいだろう。

これまでがどうであったかということにこだわるのではなく、これからを考えた時に、どのようにしたらより生産性を高め、競争力を高めて発展できるかを考えるべきである。
「地方」には様々な可能性のある「シーズ(種)」が埋もれている。重要なことは、その活かし方が理解されていない、あるいは活かす方向、方法が明確になっていないことである。
もう一度、基本となる前提から見直してみることも必要だろう。

いまのまま義務教育を続けて大丈夫???

最近、AIの進化に関連して、現在の教育の仕方、仕組みなどを危惧する記述が目立ってきた。先日も『現在の仕組み・価値基準で「勉強ができる子」「偏差値の高い子」は真っ先にAIに取って代わられる』という記事を目にしたが、まさに的を射た指摘だと思う。
小学校6年、中学3年、高校3年の12年間をどう過ごすかは子供たちに選択することができない。中学の内申点が高校受験に影響すれば、その枠組みの中でよい成績を得るために塾に通い、模試を受ける。高校に入ってからも大学受験という訳の分からない関門を突破するためだけに時間、エネルギー、資金を費やすから、それ以外に目を向ける余裕はない。
よく考えてみれば、そこでやっていることのほぼ全てがインターネット上にあり、検索すれば瞬時に手に入る。しかも無料である。
例えば、123456789×123456789= と式を入れて検索すれば、電卓がなくても1.52415788 × 1016  と答えが示される。答えは簡単に手に入るから、問題はそれをやる意味である。単にテストの点数を取るためだけであればwebから瞬時に得られるもので評価することには疑問が残る。
そればかりか、123456789という数値にまつわる様々な発見、うんちくなどまで一回の検索で得られるから、この式の計算をするよりも、一つの疑問をWeb検索し、その周辺にある様々な情報が得らることの方が余程視野が広がるし、ためになる。
情報、知識がWeb上にたくさんあり、その気になればいくらでも無料で得ることができる時代に、「勉強」と称して知識を詰め込むことにどれだけの意味があるのだろうか。そもそも「勉強しろ」と言いながら「勉強とは何か」を明確に伝えない、「なぜ、勉強が必要か」を伝えないのでは、「疑問を持つ」「考える」ということせずに機械的に言われたことだけやるという人間を育ててしまう。しかも、それで入れる学校が決まり、就職や人生まで決まってしまうという古い価値観でいたら、今度はAIに置き換わってしまうかもしれない。将来、どう変化するか分からない時代に、こんなことを続けて、誰が、どう責任を取るというのだろうか。
iPhoneが発売されて昨年2017年でやっと10年目である。言い換えればスマートフォンが大きく普及しだしてからまだ10年も経っていないことになる。しかし、スマートフォンの普及は、わずか10年足らずの間に様々な分野で大きな変化を引き起こしている。
特に大きな変化は、一人一人が特定/不特定多数を問わず、世界中の多くの人や情報と双方向でコミュニケーションをとれるネットワークにリアルタイムでアクセスできるようになったことである。しかもSNSは、米大統領選の結果を左右するような影響、そして突然のピコ太郎の出現、..というように短時間のうちに現実の世界を変えてしまうほどの影響力を持っている。
そのSNSもFacebookの設立が2004年(日本語化2008年)、YouTube2005年、Twitter2006年であるから、スマホと共に急激に普及し、我々の日常生活を大きく変えてしまったことになる。
そう考えると、義務教育の9年間(あるいは高校までの12年間)という時間が、現状、如何に大きな意味を持つか分かるだろう。
過去の時間の流れにこだわらず、将来のためにその時間と費用を費やした方がはるかに有効と考える人が出てきてもおかしくはない。
デジタル技術の進化は我々の想像をはるかに超えており、9年間(あるいは高校までの12年間)もの長い時間、寄り道をしてから取り組むには、あまりにも膨大すぎるし、何よりも頭の構造がついていけなくなってしまう。確実に浦島太郎になってしまう。
かつて中学で音楽の試験問題に作曲家の亡くなった年を書けというのがあった。こんなものを覚えて点数をとることにどんな意味があるのか、問題を作った教師に聞いてみたい。
かつて鎌倉幕府がどんな意味を持つのか分からなくても「いい国作ろう鎌倉幕府」と覚えさえすれば点数をとれていたが、いまでは1192年から1185年へと変わっている。
源頼朝の肖像画は、実は別人だったという話や聖徳太子は実在しなかったのでは?という話まで出てくると、結構いい加減なものが基準になって、それで人生が変わってしまった人がいたかもしれないと思えてくる。
「教育を神聖なもの」と言いくるめて村社会の中に閉じ込めてしまう時代はすでに終わっている。社会、経済の構造が大きく変わった今、教育の意味も手法も求められるものも変わっている。実社会を知らない人が子供に教えることに無理があるのかもしれないし、決められた枠内だけで実態とかけ離れたことを記憶させることにも意味がなくなっているのだろう。
一つしかない物差しで型にはめ、機械的に評価をするために大切な時間を使うのではなく、個々の持てる能力(脳力)、可能性を引き出すことに重点を置いた時間に切り替えることをしないと、将来が危ぶまれる。
すでに多くのモノ・コトが変わっているにも拘らず、そのことが認識できず、大きすぎる仕組み、重たすぎるインフラを維持することばかり考えて動いているのでは、将来を犠牲にするだけである。

 

 

ICT・デジタル・AI・ロボットなど情報系の総合大学・総合機関をつくろう‼

芝浦工業大学で非常勤講師として教えだして今年で25年である。
大学で教えるには、普遍的なことはもちろん重要だとしても、それを進化にどうつなげていくのか明確になっていないと足踏みをしてしまう。

筆者が学んだのは工業経営という学科であり、様々な学問分野を横断的に活用するのでインターディシプリナリーと表現されていた。同様にサービス工学の分野でも様々な分野の専門知識が必要なために、こちらはマルチディシプリナリーという言葉で表現されている。そう考えると、現在のICT、デジタル分野でもそのような更に多くの専門分野を横断的に結びつけるような分野が確立される必要があるだろう。
現在、疑問に思うのは、これだデジタルの進化が速く、次世代の中心を成し、様々な分野に広がっているにもかかわらず、ICT・デジタル・AI・ロボットなど情報系に特化した総合大学・総合機関がないことである。単に大学というのではなく、小学、中学、高校、大学、大学院、研究機関、ベンチャー企業など、人材育成から実践的な応用まで、一貫してあらゆる要素を網羅する複合的な機関でないと意味がない。今のような義務教育を9年間続けた後に、いきなり新しい発想、思考を要求しても対応は難しい。その間趣味や塾など個人的な活動に委ねていたのでダイヤモンドの原石を発見することは難しい。はじめから視野を広げるような環境で育てていく必要がある。身近にある日常そのものが変わらなければ何事も本質から帰ることはできない。世界の動きを見れば、今の日本にこのような機関がないこと自体が不思議と言ってもよい。急激に人口、特に子供が減少していくことを考えれば、無駄な議論をしている余裕はない。トヨタやソフトバンクのような企業数社が財団をつくってこのような機関をつくらないと難しいのかも知れないが、いずれにせよ早急に具体化しないと人材が間に合わなくなる。
HMR(human resource management)の発想が必要だろう。

シンギュラリティ? 急激に進化するデジタル技術、増え続ける情報量、AI時代に人はどう対処する⁉

だいぶ前になるが、「情報爆発」という言葉が言われていたことがある。その時代が情報爆発だったのであれば、いまは情報ビッグバンとでも言えばいいのだろうか。
Susieというサイトに掲載された「これから10年の間に大注目される!驚くほど近未来な11の職業」という記事の中に8:ニューロインプラント技師という職業がある。
脳研究のテクノロジーは大きく進歩し、頭のなかで考えていることをコンピューターにダウンロードできる時代になると脳のバックアップエンジニアやリアルタイムMRスキャナーの技師などが活躍するのではないかという近未来的な話である。
脳を研究してAIに応用し、そのうち脳とコンピュータが一体化するような話である。
この記事のように「頭の中で考えていることをダウンロードする」のも重要だろうが、ここまで情報量が増えてくると、「膨大な情報量を頭の中に入れて処理するインプットの方法とプロセス」を革命的に変更しないと頭の中に情報を入れるのに時間がかかり過ぎてどうにもならないない。
頭の中で考えていることをダウンロードするのもよいが、それよりも頭の中で情報を処理して考えるには外界にある膨大な情報を頭の中に入れ、認識させる(ダウンロード?)上手い方法を見つけ出す必要がある。
将棋電王戦の様子を詳細に追いかけたテレビ番組を見たが、すでにモニターを見ながらコンピュータとの戦い方をシミュレーションしていたのでは、経験できる=頭の中に入ってくる情報量が少なすぎて、いくら時間があっても人間の持つ24時間365日では対応できない。

残念なことに、現在我々が目や耳からインプットできる情報の形は文字、図表、音、画像、動画などでしかない。音も動画も情報量の割にはインプットするのに時間がかかり、現在のデジタルのレベルとはあまりにも掛け離れている。デジタルファイルをダウンロードするのとは単位時間当たりの情報量が桁違いである。
そうであれば、どこかの段階で文字、図表、音、画像、動画などを超える「膨大な情報量を瞬時に人間の頭の中に入れる新たな方式・仕組み」が必要になる。
一つは、文字、図表、音、画像、動画などに代わる情報の方式・形式(記号化)であり、もう一つは頭の中に認識させる(インプット)方法・仕組みである。
これができない限り、AIがどんどん進化しても、その先を開発する人間が何処かで限界を迎えてしまう。
以前、一生のうち、脳は100%有効に使われることがなく、多くの部分が未使用のままであるというような話を聞いたことがある。その未使用部分を目覚めさせて全く異なる進化をするのか(サバン症候群やアスペルガー症候群がヒント?)、PCのメモリーとCPUのようなものを脳に補助具としてつけるのかは分からないが、いずれにせよ、そのようなことが研究され、具体的になる必要があることだけは確かだろう。

教育の仕方も知識優先ではなく、頭の使い方=思考方法に切り替えていかないと、本来持っている能力を目覚めさせないまま封じ込めてしまう。
将棋電王戦を見てわかったことは、人間はコンピュータと違って「怖がる」「迷う」「自信を無くす」「後悔する」ことで本来の能力が発揮できなくなるという点である。このような感情は、実に「人間らしい」ことなのだが、人間にとっては、それらの要素を残しながらも能力を十分発揮できるような方法を見出す必要があるのだろう。

 

 

 

 

 

 

人口が減る都市、減らない都市を見分けて対処しよう‼

◆7月13日、住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数(平成28年1月1日現在)が公表された。それによれば東京23区内には約920万人が暮らす。東京都は社会増ばかりか自然増も加わり、この1年間で118千人も人口が増えている。先回の国勢調査では5年間で東京都35.4万人、うち23区32.7万人増えているから、このペースで2020年東京オリンピックを迎えれば、次の国勢調査までに東京都だけで60万人以上の人口が増えてもおかしくはない。 平成27年国勢調査 人口速報集計結果では、この5年間に全国で94.7万人減少しているにもかかわらず、東京圏(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県)では、その5年間に鳥取県の人口(57.4万人)に匹敵する人口(50. 8万人)が増加している。 東京臨海副都心など超高層マンション(集計上、一つの目安として20階以上 株式会社不動産経済研究所)が建設されると平均して一棟当たり300~500戸、50階以上の超超高層マンションになると、一棟当たり800~1000戸もの規模になる。 首都圏だけで2015年~2019年までに178棟、77,824戸の完成が予定されており、うち東京オリンピックへ向けて50階以上の超超高層マンションだけでも西新宿、勝どき、晴海などに14棟、13000戸も計画されている(分譲済み含む)。 単純に世帯人員が2人とすれば、一棟につき1000~2000人の人口が増えることになり、何棟かできれば町や村と同規模の住民が新たに加わることになる。  また、都内には千葉県、埼玉県、神奈川県などから毎日300万人弱が通勤通学で通ってくる。さらに国内外からのビジネス客、観光客も多いから山手線の29駅(JR、私鉄、地下鉄など)の中には東京駅、品川駅、秋葉原駅、新宿駅、渋谷駅、池袋駅など1日の乗降客数・乗り換え客数が100万人を超える駅がいくつもある。1つの駅だけでも毎日1つの県の人口が行き来しているようなものであり、山手線29駅(JR、私鉄、地下鉄など)を合計すれば延べ2100万人と四国・九州を合わせた人口にも匹敵する。 マンションばかりでなく、超超高層オフィスビルの増加によって、周辺エリアから通勤で通う人も急激に増加し、しかも局所的に人が集中する。昼夜人口比率が極端に高まるエリアでは、新たに様々な人が集まることで多様なニーズによるマーケットの急拡大が起こる。 一方、全体で約100万人減っているのに東京圏は50万人増えているということはそれ以外の多くの道府県で150万人の人が減少していることになる。人口が増えているのは、平成27年国勢調査では8都県ということになっているが、住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数(平成28年1月1日現在)では、滋賀県がマイナスに転じているから、人口が増加しているのは、東京圏1都3県と福岡県、愛知県、沖縄県の7都県の実である。 ただし、「日本の地域別将来推計人口 —平成22(2010)~52(2040)年— 平成25年(2013年)3月推計」の値と平成27年(2015年)国勢調査 人口速報集計結果を比較してみると、人口の減り方が推計値よりも小さくなっている道府県は多く、増加すると推計されている県の増え方も推計値より大きくなっている傾向にある。 これらを整理したのが 図表1 都道府県別 平成27年国勢調査と日本の地域別将来推計人口(2013年3月推計) 2015年人口の差 である。
グラフでは、右上(2010年~2015年までの5年間で人口が増え、なおかつ2015年実績値は「日本の地域別将来推計人口(平成25(2013)年3月 推計)国立社会保障・人口問題研究所」推計値より多い)、右下(2010年~2015年までの5年間で人口が増えているが、2015年の実績値は同推計値よりも少ない)、左上(2010年~2015年までの5年間で人口が減少したが、2015年実績値は同推計値よりも多い)、左下(2010年~2015年までの5年間で人口が減少し、なおかつ2015年の実績値が同推計値よりも少ない)という4つのエリアに分けて、都道府県の状況を整理してある。
★東京都ははるか右上に位置し、値が大きいためにグラフのメモリの関係でカットしてある。(5年間の人口増加354,317人、推計値との差164,281人)
詳細はまた機会を改めて詳細に説明するが、それぞれの都道府県について市区町村のポジションを同様にグラフ化してみても、人口集中が局所的に起こっていることが分かる。

◆「日本の地域別将来推計人口 —平成22(2010)~52(2040)年— 平成25年(2013年)3月推計」から見る人口が減少する都市と増加する都市の見極め方
平成27年国勢調査 人口速報集計結果では、平成27年10月1日現在の人口は1億2711万人(平成22年比▲94.7万人)、市町村単位では、1,719のうち実に8割以上(1,416、82.4%)の市町村で人口が減少し、5%以上減少した市町村も48.2%と半数近くにのぼる。うち10%以上減少も227(13.2%)ある(いずれも平成22年比)から、日本全体としては、人口が増える市区町村は珍しい存在ということになる。
一般的に考えれば、人口規模の大きい都市が周辺の中小規模の都市から人口を吸収するから人口減少の仕方は少なく、規模が小さければ小さいほど減少の仕方が大きいと考えがちである。
しかし、「日本の地域別将来推計人口 —平成22(2010)~52(2040)年— 平成25年(2013年)3月推計」について、将来の人口増減に影響を与えると思われる要素をいろいろと分析してみたところ、人口規模が大きい市区町村でも大幅に人口が減少するところがある一方、人口1万人規模の市区町村でも人口が将来増えると推計されているところがあることが分かった。
キーを握っているのは図表2 2015年65歳以上人口率で層別した8パターンの状況図表3 2015年65歳以上人口率別 2015年総人口と2025年総人口指数 からも分かるように、現在の65歳以上人口率である。
以前にも3万人、5万人、7万人、10万人、15万人、20万人、25万人、30万人と8つの規模の都市の中から2040年の総人口指数(2010年=100)が100超(人口が増える)と60~70(人口減少幅が大きい)の都市をランダムに選んで比較してみたことがあるが、都市の規模からでは人口減少について明確な法則を見出すことはできなかった。
それに対し、65歳以上人口率が18.0%以下(12.4-18.0% 23都市)、20.0%(19.5-20.4% 31都市)、25.0%(24.5-25.4% 90都市)、30.0%(29.5-30.4% 90都市)、35.0%(34.5-35.4% 77都市)、40.0%(39.5-40.4% 40都市)、45.0%(45.4-45.4% 23都市)、50.0%(50.1-60.9% 17都市)というほぼ値が一定範囲内にある8パターン、391都市について調べてみると、
図表3のような散布図になった。
横軸に総人口指数(2010年=100)、縦軸に総人口(人)をとって、散布図を作成してみる。仮に人口規模が大きい方が人口の減り方が小さい、あるいは増加し、人口規模が小さい市区町村の方が減少の仕方が大きいとなると、各市区町村は左下から右上に向かって正比例するように並ぶはずである。
しかし、実際には総人口指数が同じであっても、縦に長くばらついてプロットされている(特に65歳以上人口率が20-25%で縦に長い)。人口規模が大きく違っても総人口率が同じということが見て取れる。また、例えば50,000~100,000人規模の市区町村というように同規模の市区町村(横に見る)を見ると総人口指数は80-120くらいというように大きくばらついているから、人口の減り方は人口規模とほとんど関係していないことが分かる。
要するに65歳以上人口率が将来の人口の減り方に大きく影響していると考えてよいということになる。
ただし、ここで見ているのは、2015年に対して2025年がどういう状況にあるかというあくまでも10年後までの予測である。その先にどんな状況が待っているかをさらに進めてシミュレーションすれば、現在65歳以上人口率が低い市区町村は、人口は減らないが将来は急激に高齢者が増え、その後一定数値に収束する。一方、現在65歳以上人口率が高い市区町村は、人口は減るが高齢者は大きく増えることはなく、ほぼ一定の年齢構成に収束して人口が減少していく。
サイクルが20年くらいずれていると見てもよいだろう。

◆人口が減少する都市と減らない都市を見極めてどうするのか?
全ての市区町村について、ほぼ人口の減り方について見極めをすることはできると考えてよいだろう。問題は、見極めたうえでどうするのかという対応の仕方である。
多くのチェーンストアがドミナントを形成しているからある地域の人口が急激に減少したり、あるいは急激に高齢化したりすれば、ドミナント全体が立ちいかなくなる。それは単一地域でも複数の県にまたがっていても同じである。
団塊の世代が約500万人おり、2020年には70歳を超え、すぐに健康寿命を超えるから、状況の大きな変化は一気にやってくる。
「茹でガエル」の話のようにならないようにするためには、すでに動き出していないと間に合わない。「経営」が試されていると考えるべきである。

 

 

 

 

デジタルばかりが進化する時代、商品の分類体系=おいてきぼりのマネジメント体系をどうする?

商品はビジネスの基本に位置するものであり、非常に重要な意味を持つが、マネジメントの仕方については未だ定説がなく、情報システムの管理単位の設定の仕方・扱い方を見ても非常に曖昧なままである。
通常、商品分類体系は、デビジョン-デパートメント-ライン-クラス-アイテム-SKU、あるいは事業部-部門-大分類-中分類-(小分類)-アイテム-SKUというような構成になっており、この単位の系列がそのまま組織、予算単位になっている。
このようなツリー構造の分類体系で常々問題となるのが、ツリー状に分類された商品を横断的に集計することができないことである。
例えば、ブレザー、ネクタイ、ベルト、バッグなどをテイストでくくりたい、シャツブラウス、スカート、スカーフ、バッグ、靴、アクセサリーなどをテイストでくくりたいといった場合である。
ちょっと気の利いた担当者であれば、誰でもチェックしているいたって当り前のことであり、このような見方ができないと売れるアイテムに連動した商品構成、売場づくりができない。
しかし、多くの企業で、このような集計ができるシステムを持ち合わせていないというのが実情である。

もう一つ、商品のマネジメント上の問題としてシステムの中に組入れられていない分類の仕方がある。
図表-1 商品の体系 は、商品をその特性によって分類し、体系づけたものである。(図表の荒利率=粗利率)
全体としては、大きくプロプァー商品(普通品)と特売商品に分けている。プロプァー商品は、さらに定番商品とスポット商品、定番商品は年間定番と季節定番というように分けられる。
特売商品は、チラシ掲載商品(プロプァー商品もチラシに掲載することがある)、常備特価商品(特価定番)、スポット特売商品とに分けられる。
通常、商品分類体系は、前述のように品種など商品の類似性で分けるが、ここではチラシ掲載の有無、価格設定(値入率設定)やリピートの可否、取扱い期間など、取り扱い方の違いによリ分類している。

このように商品特性によって商品をグルーピングし、管理することは「商品全体のバランス』を確認し、精度の高いマネジメントをする上では非常に重要である。
例えば、商品トータル(例えば部門)の粗利率が低い場合には、プロプァー商品、特売商品それぞれの粗利率を確認し、さらにプロプァー商品と特売商品の売上比率が計画通りにいっているか否かを確認する。原因は分類単位の下の階層にあるから、さらにその内訳を同様に見ていくことで粗利率が低くなった原因を見つけることができる。原因が特定できれば改善方法も特定できるから修正行動がとりやすくなる。
粗利率相乗積を用いれば簡単に計算で求められる問題でもあるが、実態としての商品の中身まで追求しないと具体的な対応はできない。特に従来の品種による商品分類体系だけではプロプァーと特売商品の比率が分かりにくい(平均売価しか出ないケースが多い)から、安売りのし過ぎがあっても具体的には特定することが難しい。
また、在庫がオーバー気味になり、商品回転率が落ちた場合には「特売商品」が不良在庫として売場やストックヤードに眠っているケースが多い。
そのようなことも従来の商品分類体系をベースに見ているだけでは分からない。

また、もし、プロプァー商品に何らかの問題があれば、その原因は、定番商品とスポット商品にあるし、定番商品であれば年間商品か季節商品に原因がある。
年間定番に問題がある場合には、基本的な定番設定の考え方・方法に問題がある場合が多く、季節定番に問題があ場合には、年間定番との棲み分け、季節定番という機能についての理解ができていないケースが多い。
スポット商品が多すぎる場合にはアソート崩れの残商品が売場の鮮度を悪化させ(半端商品が売場の多くを占める)、さらに不良在庫として商品回転率の低下につながり、処理をすれば粗利率の低下につながる。
同様に特売商品に何か問題があれば、それはチラシ掲載商品、常備特価商品、スポット特売商品に問題があるから、それぞれの中身を見ていくことで原因と改善方法を具体的に特定することができる。
売上、粗利率、在庫、商品回転率、売上比率、在庫比率など、いずれの場合も相乗積の考え方で見ることができるが、それにはここであげたような分類単位でデータが集計できる必要がある。
問題の中身は、例えば売上であったり、粗利率であったり、在庫であったり、商品回転率であったりするが、いずれの場合も、個々の商品グループを明確にし、あらかじめ数値的な目標値、あるいは計画値を設定しておかない限り問題の追及をすることはできない。
たとえ「売上が悪い」「粗利が低い」という場合があったとしても、必要に応じた分類単位でデータが把握できない限り、手の打ちようがない。すべて一律にSKU管理をしている企業も多いが、そのようなシステムの企業が、このような対応の仕方をしようとすれば、一つ一つのSKUに識別コードをふって振り分ける必要がある。

いずれにせよ、どんなにコンピュータが進化しても基本は「手でできる仕組みをつくってから機械化」である。
例え何でもできるシステムがあったとても、どのような考え方でデータを集計するのかという最も基本的なことを間違えれば、結局何もできないのと同じである。

進化するデジタル技術(投資する莫大な資金)を有効に生かす上でも、いま一度、マネジメント上の管理単位について整理する必要があるだろう。

インバウンドが変調 ❓それともインバウンドで日本が変調❓

「爆買いバブルが2017年までに崩壊する理由」「三越伊勢丹、「爆買」訪日客単価3割減で急失速」 いずれも東洋経済onlineに掲載された記事のタイトルである。
もともと神風的な要素が強く、「のど元過ぎれば…」という小売業特有の体質から、せっかくの経営変革のチャンスを逃すのではないかと危惧していたが、いよいよ分からなくなってきた。
「百貨店売上3か月連続減少」「インバウンド低調」「高額商品に陰り」など、速報値が発表されるたびに様々に報道されるが、ポイントはいくつかあるだろう。
リピーターの増加、「sightseeing」から「sight doing」というように「物販」から「体験型消費」への移行、LCCによる地方空港への移行、….など、マーケットの状況が変わりつつあることは重要な変化要因の一つである。
それ以外にも、マイナス要因、プラス要因として考えられることはいろいろと指摘されているが、あまりにも中国一辺倒で迎合しすぎていることに対して、「まるで日本ではなく、中国に来ているみたい」という観光客の声もあるというからインバウンドへの対応の仕方、活かし方をどこか間違えているのかもしれない。
確かに京都の寺院を見に行って中国語とハングルの看板ばかりでは、???…となっても不思議はない。我々が海外に行って日本語の表示や看板を見ると、どこか安心するようなこともあるだろうが、それも程度問題であり、どこへ行っても日本語の看板ばかり、どこへ行っても日本語ばかりでは、興ざめしてしまうだろう。
何事も「過ぎたるは…」ということだろうが、こういうことに慣れていないと、日本人は親切心からどんどんエスカレートしていってしまう。

観光は重要なマーケットであることは確かだが、いつまでも「物売り」から抜け出せない小売業の業界体質の問題が全く議論されていないことも大いに気がかりである。
小売業の人間は、古くからアメリカ視察に行っているから分かるはずであるが、昔はみな決まってお酒とタバコ、化粧品、ブランド品などを買ってきたものである。数十万円買い物をする人も珍しくなかったが、毎年のように行っていると、そのうち買えるものがなくなってくる。
お決まりの観光地に飽きてくると、あまり観光客がいかないようなニューヨークの裏通りを散策してみたいという気持ちにもなる。また、その頃になると、そういう穴場的な場所や店を紹介した本も出てくるから、徐々に動き方、お金の使い方が変わる。
自分たちがどのように変化していったかを考えてみれば、今後我国のインバウンド消費がどのような方向に向かっていくべきかはある程度イメージできる。
メーカーは、中国人のアドバイスを受け、中国人が好むパッケージに切り替えるなどの取り組みもしているというし、多くの免税コーナーでは専門スタッフを配置して言葉だけではなく、感覚的にも分かりやすい対応をしているという。あちこちに中国語、ハングルなどの看板もついているから、観光客はどこに行ってもあまり困ることはない。
そのうち、あらためて「日本とは何か」「日本らしさとは何か」という議論が聞かれるようになるのかもしれない。
日本政府観光局(JNTO)が6月15日に発表した2016年5月分の訪日外客数(推計値)は、前年同月比15.3%増の189万4千人、2016年1-5月の合計値は972万8千人となり、昨年の同期間を約29%上回っているという。(http://inboundnavi.jp/monthly-number-may2016)

すでにテレビでは1千万人を超えたと言っていたから、どこまで伸びるか分からないが、中国、台湾、韓国などアジア中心で欧米が伸びていないのが気がかりである。
一歩舵取りを間違えると、日本がどこの国だか分からなくなってしまい、本当の意味での観光立国から遠ざかってしまうのでないかという危惧もある。
いまは急成長でみな熱くなっているが、冷静な視点から長期的な展望を持つことが必要だろう。

進化の仕方がどこかおかしい‼ 逆戻りしている?

◆製造業の進化の仕方
生物だけでなく、様々なモノ・コトについて進化のプロセスを見ると、一定の法則に従っていることが分かる。
例えば、製造業の進化プロセスを見ると、人間の進化のプロセスを象徴するような進化の仕方をしている。
① 道具・工具の利用;手の延長としての道具・工具は、作用点・保持部の形状、構造、サイズ、素材などの進化によって、作業性、出来栄えなどを飛躍的に高めることができた。
② 治具の利用;測定、位置決め、調整などに用いる治具の開発は、道具・工具とはまた違った意味で作業精度の向上、作業工数の低減を実現した。
③ 負荷の軽減;浮力、コロ、カウンターウエイトなどを利用することで負荷を軽減し、より少ない力で目的物を取扱うことを可能にした。負荷の軽減は、実質的に能力の増加と同じ意味を持つから重要な視点である。
④ 力のコントロール;テコ、滑車、歯車など力のモーメントを利用することで、力の増幅・減衰を可能にし、さらに方向の変更をも可能にした。目的に応じて力をコントロールし、さまざまな形で使えるようにしたことで、できる仕事の範囲が大幅に広がった。
⑤ エネルギー活用、機械化;位置・運動・熱・電気・化学・光など各種エネルギー活用による機械化は、人や馬などの生物的エネルギーとは比較にならないほどの持続性と量的増大、そしてエネルギーの蓄積を可能にした。
⑥ 自動化、ロボット化;センサー、制御、アタッチメント、コンピュータ、プログラミング、人工知能などを統合することで実現した自動化、ロボット化によって、人間が直接関与せずに、マネジメント機能までを包括した製造のシステム的運用を可能にした。
今後、AIの進化、AIを搭載した人型ロボットの進化など、どこまで進んでいくのか分からないが、一定の法則の従っているようにして、進化してきていることは確かである。
また、進化のプロセスは、このようなハード面の進化ばかりでなく、知識・技術・ノウハウ、マネジメント、システム、教育、運用組織、プログラミングなどソフト面での進化も重要な役割を果たしている。
① フロントヤード(製造に直接的に関与するソフト); 運営組織、業務処理・業務管理システム、工程管理・負荷計画・スケジューリング、作業・動作方法、職場編成、作業管理システム、道具・工具・ジグ、機械・設備類、教育(OJT)、IT技術、…など、現場における業務遂行を直接的に支援・マネジメントする経験・知識・技術・ノウハウなどにより、製造のレベルは進化、向上している。
② バックヤード(製造に間接的に関与するソフト);経営組織、研究開発、コンピュータ・情報システム、マネジメント、各種システム、IT、教育・トレーニングプログラム(OJT、Off JT)、…など、間接的に品質や生産性などの維持、向上を保証することで製造のレベルは支えられ、進化することが可能になった
…..などである。
ハード面とソフト面の進化は、必ずしも連動して同時に起こっているわけではないが、長い進化の歴史の中では、試行錯誤や偶発的な発見、計画的な開発などさまざまな形が混在しながら、結果として相互に刺激し合い、補完するようにして起こっている。
◆先進国と新興国の進化の仕方
20世紀が「物の充足の時代」だとすれば、21世紀はデジタル化とネットワーク化によって「物、場所、時間から解放された情報化時代」、しかも「グローバル化した情報化時代」ということができる。
ポイントは以下の2点である。
①デジタル化によって物(媒体)と機能が分離したことで、物に関する制約から解放され、同時にネットワーク化によって時間と場所に関係なく、いつでも自由にデジタル情報のやり取りが可能になった。タイムフリー(時間)、ロケーションフリー(場所)、セクションフリー(分野)、コストフリー(費用)など、画期的とも言える数多くのメリットを得たことになる。
②物(媒体)と機能が分離したことで、物を「つくり」「在庫し」「運び」「売る」ことが必要なくなった。物をつくるための設備、配送のための物流センター、トラック、販売するための店、商品在庫、…等々である。
「物」中心の20世紀型産業構造にとって最も基本的な要素である「物」と物に関わるさまざまな設備、場所、在庫、手間、人手、コスト、それらに対するマネジメントなど、多くのものから解放され、全く次元の異なる世界に入ったことになる。

先進国と新興国では物の充足と情報化という進化の仕方がまるで逆である。
筆者は、逆というよりは、先進国が経験した商品(物)の充足・進化過程など先進国が経験した物の時代で得た成果だけを新興国に移植する形で、いきなり完成度の高いデジタルとネットワーク環境を、しかも低価格で提供したと考えている。
それは先進国が新興国に対し、生産基地としての近代化を求め、提供したものであって、歴史的に見ればいつの時代も同様のことが繰り返されている。大きな違いがあるとすれば、これまでは物という同軸上で起こっていたことが、今回は物からデジタル・ネットワーク・情報という異質なものへ移行するタイミングで起こっているという点である。
物の時代を長年経験し、その枠組み・秩序の中でしか物事を発想してこなかった場合と、いきなりゼロの状態からデジタルとネットワークの世界に入る違いは大きい。
例えば、いろいろと工夫をし、長年技術を磨いてコツコツと物づくりをしてきた人が、全く同じものを3Dスキャナーで計測し、3Dプリンターで作る様子を見たら、どのようなリアクションを取ることができるだろうか。その状況を理解し、納得するまでには多くの時間を要することだろう。しかし、この変化に適応できなければ、そのスピード、量、コストに圧倒され、一瞬にして飲みこまれてしまう。
日本の製造業にありがちな「良い商品さえつくっていれば….」という考え方は、物に帰属する基本機能の性能を高めたり、二次機能を付加したり、というように物をベースに置いた物時代の発想の延長でしかない。
デジタルカメラがスマートフォンに押されて売れなくなったから高性能な機種、ミラーレスへとシフトする…、液晶テレビの巻き返しにより4Kテレビを…という発想も同様である。
基本機能の性能アップは「使い勝手」「利便性」などの二次機能、ブランドなど物から離れて独自の意味を持ちだした三次機能とは本質的に異なる。マーケットの受け止め方次第では、性能を高めることは逆にマーケットを狭めることにもなりかねない。
マーケットのニーズが、高価格でも高性能な商品を求めてるのか、一定の性能・利便性さえ満たせば低価格の方がよいとするのか、あるいはアップルのように個々の製品だけではなく、ソフト、全体システム、ブランドなどトータルな三次機能=ライフスタイルやカルチャーの価値を高めることを求めているのか、…。
また、マーケットは先進国を狙うのか/新興国を狙うのか、ターゲットはイノベーター(革新者)か/アーリーマジョリティ(前期追随者)か/レイトマジョリティ(後期追随者)なのか、これから普及する新しい商品を使うのか/ある程度普及した商品の買い替え需要を喚起するのか、一般消費者を狙うのか、初級者・中級者・上級者のどこを狙うのか、…。
そのような意味では、先進国と新興国という全く異なる進化過程、異なるニーズを持つマーケット、その中のさまざまなセグメントに対して、どのようなポジションをとり、どのようなターゲットを、どのように攻略しようとするのか、冷静に状況を整理しないと戦略を見誤ることになる。それによって競争の意味自体が大きく変わる。
進化の方向を見れば、物の時代からデジタル化・ネットワーク化・情報化と進んだ現在は、デジタル化されたトータルシステムへと向かう過渡期にあると考えられる。
新興国のパワー、ボリューム、スピード、価格に圧倒されている現状に対し、同じ土俵で巻き返しを図ろうとするのか、それとも次のステージへ土俵を移し、次世代技術で優位な競争をしかけるのか、いずれにせよ、大きなマーケットでリードしようとすれば、物づくり以上にマーケット戦略が重要になる。
特に三次機能が重要な意味を持ちだした時代ということを考えれば、基本機能の性能アップ、二次機能の付加に活路を見出そうとする手法は、現在多く見られるミスマッチの構図を象徴するものである。
我国が得意とする技術や物づくりを活かす意味でも、現在の環境変化やマーケット、ビジネスの構造変化を考え、何処に活路を見出すのかという戦略的視点が重要になる。

「クールジャパン」というキャンペーンは、日本のモノづくりやサブカルチャーなど日本特有の文化を言っているはずであるが、世界にPRし、マーケットの掘り起こしをしても、本当の意味でビジネスとしてつくり上げることができていない。
シーズ(日本のモノづくりやサブカルチャーなど日本特有の文化)はあるが、それを広めてビジネスとして回収するためのビジネス組織、戦略が一体化して動いていないからだろう。
ある意味、家電メーカーと同じで先駆していたはずなのに、物づくりや販売という具体的なビジネスの段階になると、マーケティングや戦略がなく、大きな収穫を得ることができない。
進化のパターンや全体をリードする明確なビジネスモデルがないまま、走り出したことが原因だろう。

◆現状 何処か歪に感じる進化の仕方
小売業、飲食業、サービス業、そして数多く生まれ、物凄いスピードで進化・成長しているIT系企業、いずれもメーカーのように明確な進化のパターンを見出すことができない。
大手の小売業、飲食業、サービス業などで、システム化し、効率を高めている企業もあるが、圧倒的に数が多い中小零細規模の企業では、IE(Industrial Engineering)やQC(Quality Control)・QM(Quality Management)など管理技術とは無縁といったところも多い。
IT系企業も扱っている対象が対象だけに最先端を行っているようなイメージがあるが、企業組織として見た時にはマネジメント関連が決して強いとは言えないケースも多い。
これまでのアナログ的な現場に様々なIT機器やシステムが加わったことで、どことなく近代化したようなイメージはあるが、よく見てみると、製造業にあったようなアナログ時代の進化プロセスをとび越えて、いきなり様々なデジタル技術を受け入れた、あるいは置き換えたという新興国に似た進化の仕方をしている。
それ自体がよいか否かの判断は難しいが、何処か歪な感じがする。
現在、デジタル・マーケティングなど個々のデバイスを通した様々な測定から個別にアプローチをしていく方法、技術が盛んに開発され、普及している。
しかし、個々に見ていけば扱っているのはデジタルデバイスを媒体とした様々な技術やアプリであるが、測定データをどのように解釈し、どのような仮説を立ててマーケテイングの精度を高めていくのか、ということになると、「個人の勘」に基づく「試行錯誤」というのが実態である。
何らかの理論、法則性があって、それに基づいているわけではないから、多くの物事がブラックボックスの中で進んでいく。
結局、ビッグデータと言ってもデータサイエンティストに現場(リアル)の経験・知識があるわけではないから、あくまでも最後は個人の勘や推理、アイデアなどに頼ることになる。
そう考えれば、「進化のプロセス」を客観的に整理することは、マクロでは「サービス産業=第三次産業」の生産性を高める上で重要になるだろうし、ミクロでは個々の現場の改善効率を高める上でも重要になるはずである。
進化・変化の速度が速いから、そんなことはやっている時間がないということなのかもしれないが、普遍性のある進化プロセスが設定できれば精度が上がるから、さらに早い速度で進化することも可能になるはずである。

子供の数がまた減った‼どうする?

毎年、子供の日には、その年の子供(0~14歳)の数が総務省により発表される。子供の数は1605万人、1982年から35年連続して子供の数が減少しているという。
3年区切りで見ると、0~2歳 307万人、3~5歳 316万人、6~8歳 318万人、9~11歳 321万人、12~14歳 342万人であり、2015年の出生数が5年ぶりに前年比4000人増えて100万8000人ということだから、このまま推移すると、3年後にはさらに子供の数は40万人くらい減ることになる。

結婚しない人が増え、晩婚から子供の数も減るし、女性活用といってみても無認可保育所に入れる手間と費用を考えれば、子育てなど現実的な選択とは思えないほど負担は大きい。人口減少問題の解決には、移民か出生数の増加しか考えられないが、保育所からはじまる子育て、教育費の増大を考えると、すでに異常な状況にあるとしか思えない。教育費の負担を奨学金という形で先送りすることもできるが、奨学金の支払いができずに自己破産したなどという話もマスコミに登場しているから、難しさを二世代に分散しただけで抜本的な解決にはならない。
基本的に現状の枠組みでは対応が難しいことは分かっているから、仕組みを根本的に変えるしかないが、枠組みそのものを変えずに部分だけいじって済ませようとするから無理がある。
あらゆる分野に言えることであるが、過去の枠組み、仕組みを捨てないで現状を変えることはできない。
身につけなければいけないことがたくさんあり過ぎるのに、未だに一つずつ、しかも優先順位をつけずに昔のままの価値観で片っ端から知識を詰め込もうとする。
我々でさえ、より専門化し、増え続ける情報を追いきれない状況にある。しかも進化に伴いジャンルは増え続け、しかも新たに解明されることがあれば、それまでの情報は修正されるから、常に正しい情報に更新し続ける必要がある。
そのような環境にいる子供たちに、優先順位をつけず、選択もさせないまま情報を詰め込むのが教育というのでは、どうでもいいことだけでオーバーフローしてしまう。どうでもいいことをテストして100点をとったとしても、そのことに何の意味が見出せるのか、はなはだ疑問である。怖いのは、その100点を皆が勘違いしたまま、長い時間過ごしてしまうことである。
10年後、20年後にその100点は全く意味をなさず、本当に必要で肝心なことがたくさん積み残されていたとしても、だれも責任をとることはできない。
大切なことは、子供たちが大人になり、社会に出た時に、しかも何十年かに渡り役に立つ教育がなされることである。
10年後になくなる仕事が話題になっている状況を考えれば、不要なモノは捨て、必要なものに絞って提供するのが、本来の教育の責務だろう。
一律に評価するための知識を与えるのではなく、10年、20年経っても陳腐化せずに発展させることができる考え方と方法、知恵を実技として教えなければ子供たちがかわいそうである。
いまのままでは、これまで評価の高かった子供が社会に出て全く使いものにならないという状況が必ず起こってくるし、特定分野で非常に高い能力を持っている子が途中で潰されてしまい、本当の意味で持てる能力を活かすことができないということも起こるだろう。どちらも本来の能力を適正に生かすことができなかったということでは悲惨であるし、いろいろな意味で損失である。
いまがどうかではなく、将来から逆算して、いまをどうするのか、というように教育の仕方・内容を決めていかないと、「ゆとり教育」同様にモルモットにされる子供たちが増えるだけである。
人口が減少するから、本来ならクオリティを高める必要があるが、いまのままでは、人口が減少するだけでなく、クオリティも低下する、といった状況になりかねない。
一律に満遍なく知識を与え、みな横並びに同じ基準で評価して….などという時代はとうの昔に終わっている。
それぞれの特性に応じて、より高いレベルで能力が発揮できる得意分野で、個が生かせるようにすることでしか、人口減少に対応することは難しい。
子供の減少は、すでに何十年も続いているし、将来に対する推計結果も出ているのであるから、いまさら毎年の行事のように「子供が減った」と騒ぐのではなく、「だからどうするのか」という具体的な議論をするべきだし、議論に基づいた修正を具体化する必要もあるだろう。特に小中9年間という膨大な時間とコストの使い方は抜本的に見直す必要がある。あとになってから修正するのでは間に合わない。