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基本は52週販売計画とOTB(open to buy)、相乗積と交叉比率

いつのまにか恵方巻が世間を賑わせるようになったが、面白いのは一般には「恵方」の何たるかが全くと言ってよいほど知られていないことである。
「恵方」を調べると「陰陽道の….」とある。
陰陽道?と思うが、我々が知っているのは映画の陰陽師ぐらいで、どこから太巻きが出てきたのか?と不思議に思う。
クリスマスやバレンタインデーと一緒で、みんなで盛り上がることさえできれば、そんなことはどうでもよいのかも知れない。しかし、商売という観点から見れば、ポイントは普段あまり売れないケーキやトリのモモ、チョコレート、太巻きなどが「何らかの意味」を持つ(与える)とたくさん売れるようになるという事実である。
もちろん、その裏には企業・業界の仕掛け、マスコミが取り上げたくなる話題性、アルバイトへのノルマの押し付けなど、様々な事情もあるのだろうが、同じ商品が「ある時」「その意味を変える」と売れ方が大きく変わるという事実はおおいに注目する価値があるだろう。

◆商品が、時間と共に(時系列で)意味を変え、それに伴って売れ方が変わるというのは、小売業に限らず多くのビジネスにとって重要な意味を持つ。
売れ方が変われば、商品の原材料の手配から始まる生産体制、在庫の持ち方、仕入の仕方、販売体制、売場づくり、人員体制など、多くのモノ・コトが連動して変わる。当然、配送など物流面にも大きく影響するから、時系列変化を単に数値としてだけでなく、その変動要因となる社会行事・生活歳時などのほか天候や気温など様々な要素との関係において理解することが重要になる。
最も消費者に近い小売段階は最終的な販売と在庫調整=売上、利益、生産性などを決めるとても重要なポジションということになる。
筆者が最も基本に置いているのは52週の販売計画である。
これにはいろいろな意味があるが、主なものを整理すると次のようになる。
⓵日単位で見るのでは細かすぎるし、月でとらえてしまうと大きすぎる。月が替わるたびにリセットしたのでは、月をまたぐようなケースは捉えにくい。
⓶時間帯、日、週、旬、月、…など、いろいろな期間の取り方があるが、日常業務を見ていくと週という単位が大きすぎず、細か過ぎずちょうどよい。1か月4週という見方よりは13週(3か月)から26週(6か月)のスパンをローリング(1週過ぎたら先の1週を加え、常に13週なら13週、26週なら26週を見る)で見ていくのが、人員配置を含めた業務スケジュールなど、先のことを準備するのにちょうどよい。
また、売上、在庫、粗利など結果として現れる数値に対してし、その要因となる仕入、在庫、値入、売価変更など、結果が出るまでに時間的なズレがある数値についても時系列で見れば遡って因果関係を確認することができる。
あの時、仕入れすぎて在庫がオーバーしたから、その後値下が起きて粗利が下がった、あの時、A商品の仕入れが足りなかったから、後になって欠品を起こし、売上がショートした…等々である。
⓷時系列でモノ・コトを見る目的は、時間の経過とともに変化する状況(ある一定の法則)を見ながら将来を予測し、計画する、あるいは過去の不具合を修正し、活動の精度を高めることにある。
時系列で見ると、商品の意味の変化が売上の変化に影響し、売上の変化に伴う在庫の持ち方=仕入の仕方のタイミングや商品のバランス、売場表現、販促などが結果と連動していることがよく分かる。
例えば、在庫過多や値下が異常に増えた(粗利率が下がる)場合には、遡って仕入を見ればそこに原因があるし、逆に欠品による売上低迷が認められる時にもその原因はそこから遡った時点にあるから、どのような状況下で、どのようにして、どのようなことが起こったのか、原因の特定、異常が起こる際の因果関係=メカニズムを把握することができる。
⓸異常な事態だけではなく、上手くいった場合、大きく売上を伸ばした場合にも、その理由は遡って見ることができるから、単に結果として売上が上がる週だけではなく、その前後何週間かを見ていけば、良い場合、悪い場合とも、おおよその状況を把握することができる。
*言い方を換えれば、売上の高い週だけを見ていても、その理由を知ることはできないことになる。
また、事前告知をする大きな売り出しの場合には、必ず事前には買い控えがあり、また売り出しによる売上の先食いで後の売上低迷が起こるから、単に売り出し期間の売上を見ているだけで評価することは難しい。
以前、大手GMSなどが会員向けに大規模な割引セールを行っていたことがあるが、その週だけ見れば非常に大きな売上であるが、セールの前々週・前週、セール後の1~2週の売上まで含めて考えると、何もやらない場合と大して変わらないというケースも多々見受けられた(その結果を受けて取りやめている)。期間トータルとしての粗利率を考えれば、何もやらない方が結果として高かったということもあり、もう少し広い視点からモノ・コトを見ないと判断を間違える典型的な例ということになっている。
⓹粗利率や売上の相乗積計算は、単に商品の組合せだけではなく、商品A、B、C、…の代わりに第1週、第2週、第3週、…というように週単位の売上構成比を使っても同様にして見ることができる。このようにすれば、予算の進捗管理をしながら修正の仕方を考えて日常業務を進めることができる。
月単位での与実管理は管理会計的には重要であるが、現場での進捗管理=具体的に業務として現場の修正を行いながら業績を上げる=という観点から見れば、月ごとにリセットするよりは、累計値を継続して見る方が重要になる。
そのためにも週単位の時系列は有効な方法と言える。
⓺別項に相乗積と交叉比率をあげてあるが、⓹で説明したように商品や部門というとらえ方だけでなく、週単位の値を用いて同様のことを検討することができる。
全ての結果が出てからでは修正することができないから、少なくとも週単位に分けて数値の計画をし、それぞれの週の進捗を見ながら仕入=在庫の持ち方や粗利率の修正、売場づくり、販促などをこまめに修正していくことが重要になる。

 

 

ロボットの設計思想はどうなる?2017国際ロボット展に行ってきた

12月1日、2017国際ロボット展に行ってきた。
テレビで紹介していた通り、大盛況といった感じである。
事前登録を済ませておけば並ばずすぐに入れることも好感が持てた。
ところが、会場に入ってすぐに疑問に感じたことがある。
いろいろなロボットが並んでいるし、デモンストレーションでいろいろな動きをしているが、どれをとっても同じ動きでしかない。
1980年代に西友が能見台にメカトロ店舗をつくり、ロボットにジグソーパズルをさせるなどデモンストレーションをやっていたのとまったく同じに見えてしまう。
この30年以上の間、基本的な進歩がなかったことになる。
もちろん、センサーもアタッチメントもソフトもよくなっているから、精度は飛躍的に高まり、スピードも速くなっているが、基本的には人間の動きを機械に置き換えてやらせているだけでしかない。
疑問を晴らすために大手企業や日本でもトップクラスと思われる大学の出展ブースで訊いてみたが、どうもこちらが期待するような答えが返ってこない。
唯一、こちらの意図を理解し答えてくれた=会話が成り立ったのはファナックの担当者だけであったから、残念というしかない。
おそらく、多くの人が「この人間は一体何を言っているのか...???」といった感じなのかもしれない。
筆者の疑問は、AI、ロボットなどまさに21世紀を支えるデジタル技術が救世主のように言われているが、「それって人間の動きを機械に置き換えているだけ?」というものである。
製造ロボットはアームを器用に動かし人間と同じように部品を取り、組み立てていく様は確かに素晴らしいことであるが、それではいつまで経っても、どんなに早くして見ても人の動きと同じ軌道をなぞっているだけであるから限界がある。
30年以上も前のことだが、あるパンの工場で流れてくるパンに光沢をつけるために玉子の黄身をつける工程を見たことがある。バケットに玉子の黄身がたくさん入っていてその下をパンがコンベアに乗って流れていく。なんとたくさんの刷毛がバケットに入って玉子をつけ、その刷毛でパンに黄身を塗り付けている。3回(パン3つ)に対して1回玉子をつけるから後ろに行くほど玉子は薄くなる。
まさに手作業をそのまま自動化している。おそらくバケットから下に幅の広い布状のモノを伝わせるか、噴霧すればまた違うのだろうが、詰まる、固まる等の不具合があるため、仕方なくやっていたのだと思う。
まさに人の作業をそのまま機械に置き換えるというのは今も昔も基本的には何も変わっていない。
筆者が学生だった時代、オールドIE(Industrial Engineering)の時代には複雑な形状の部品があれば、それを2つ、3つに分けて単純な形に変え、加工しやすくするなどということが言われていたことがある。
その後、NC旋盤、マシニングセンターが当り前になると誰もそんなことを言わなくなり、3Dプリンターの時代になれば、そんなことがあったことさえ信じられないと言ってもよい状況にある。
そこで、製造ロボットである。
確かに人と同期して動くロボットなど、人が働く現場に調和することが重要な意味を持つことも十分理解できるが、それでは、いつまで経っても人の動きの置き換えという状況から抜け出せない。
何故、これだけ技術が進歩しているのに、「大元の思想が全く変わらないのか」不思議でしょうがない。
センサーもアタッチメントも精緻な動きも可能であるならば、「製品の構造、部品、加工方法、製造工程」をロボットの能力が十分発揮できるように修正しないのだろうか。もちろん、ロボットそのものの構造も変わることになるだろうが、いまのまま人の動きの置き換えでは、工程も加工方法も製品ユニット=構造も従来とは基本的に大きく変わることがない。
加工スピードにしても人の動きをそのまま模倣している限り、どんなに早送りのように動かしてみても工程そのものが変わらなければ限界がある。
多くの場合、製品の心臓部分はチップに集約されているため、加工の中心は周辺のメカ部分になる。基本的に機能が決まれば構造も決まるから機能別に構造をパターン化することはできる。部品形状、加工方法、工程も同様である。
そうであれば、そろそろ技術とは別の次元のロボットを使いこなす生産システムの思想そのものをリデザインする必要があるのではないだろうか。
ファナックの担当者氏はロボットをつくる上で自社にはそのような工夫が多少はあるが、クライアントのニーズには、ないのではないかというような話をしていた。
どんなに技術開発が進んでもロボットの世界はまだまだなのだろう。

*そこで出展していた大学のブースへいって訊いてみたが、学生・院生ばかりということもあり、全く話にはならなかった。日本を代表するような大学であることを考えると、学生・院生の内にトレーニングすべきことが、どこか違うように思う。

1月18日には第1回ロボテックスにも行き、基調講演も聞いた。
個々の技術よりもインテグレーターの重要性が分かったのが大きな収穫だったが、そこがブラックボックスになっているのでなかなかその全体像が見えてこない。

個々の技術は非常に優れているのだから、その使い方・生かし方、設計思想を研究する分野が車の両輪のように発展してこないと本当の意味でのポテンシャルを発揮することができない。
仮に思想そのものが変われば、現在の技術も思想と共に価値が失せる可能性がある。
何とももったいない話である。
開発そのもののやり方を見直さないと、下働きばかりでプラットホームを構築することはできない。
何かスッキリしない状況である。
第4次産業革命はどうなるのだろう。

昔、日本の小売業もいずれアメリカのようになると言われてきたが...⁉ 

◆日本の小売業もいずれアメリカのようになる…?
チェーンストアが日本に導入され、急成長を始めたころから、いつも言われ続けてきたことは「いずれ日本の小売業もアメリカのようになる」だった。多くの小売業者がアメリカ視察に訪れ、その結果、様々な業態のチェーンストアが生まれて現在のような小売業の形が形成された。
しかし、なぜか、そのようなことを言い続けてきた人達も最近は何も発言しなくなっている。
もし、いまでも当時と同様にアメリカ小売業が日本より何年も先行し、そこに将来の日本の小売業の姿を投影して見ることができるのであれば、日本の小売業は近い将来、かなりの確率で大変な事態に遭遇することになるだろう。
ここ最近、アメリカから聞こえてくる小売業関連のニュースは、我々も聞いたことがあるような企業の破産申し立てや大量の店舗閉鎖、そしてAmazon Dash Button、Amazon Go、Amazon Echoなど、アマゾンを軸にしたデジタル技術活用の新しい販売方法の話題ばかりである。
ショッピングモールは、いずれ現在の半分弱から3分の二にまで減少するだろうと予測するアナリストの話やショッピングセンターの多くでは2025年までに飲食スペースの占める割合が8%から20%まで増えるだろうというような話もあるから、明らかに実店舗における物販のウエイトが低下し続けると予測されている。
アマゾンがホールフーズを買収したというニュースが伝わった際には、アメリカ小売業の株価はクローガー9.2%、 スーパーバリュー14.4%、ウォルマート・ストアーズ4.7%、ターゲット、ウォルグリーン・ブーツ・アライアンス、コストコ・ホールセールは5~7%下落した。一方、ホールフーズの株価は29.1%上昇というからAmazonの影響力を市場がどのように評価しているのかが分かる。
日本では無関心なのか、それとも日本は大丈夫と考えているのか、いまのところ小売業の株価は全く反応を見せていない。
仮にアメリカ小売業が日本の小売業の先行指標という見方が正しいのであれば、いずれ日本も現在のようなEC(電子商取引)の影響を大きく受けるなどといった生易しいものではない状況に陥るだろう。衣食住余のあらゆる商品・サービス、EC/実店舗、物流網、IoT、AIなど、日常生活に関わるあらゆるモノ・コトの構造を根底から変えてしまうような革命的な変化が起こると考えてよいだろう。
旧態依然とした経営の実店舗チェーンストアはどこかに吹き飛んでしまうかもしれない。しかも、このような流れは政府も主導する第4次産業革命の流れに沿ったものである。好むと好まざるとにかかわらず、この流れに乗るしかないのだろう。

小売業を取り巻く我国の環境はアメリカのそれよりはるかに厳しい状況にある。
例えば、アメリカは移民を中心に人口が増加し続けているのに対し、日本は急激な高齢化と人口減少(地方主要都市1つ分の人口に相当する年間30万人減少)に直面している。2016年の出生数は100万人を割り込み、今後減ることはあっても増える見込みはない。一方、死亡数は130万人であり、ピーク時には160万人に上るとされている。
その結果、1980年にアメリカ(2.27億人)の約半分(1.17億人)だった日本の人口は、2016年にはピークアウトしてアメリカが3.23憶人と大きく増加しているのに対し、1.27億人と減少し始めている。今後その差は拡大する一方と推計されている。
また、1980年にアメリカ(286百億ドル)の約4割(110百億ドル)だった日本のGDP(名目、ドルベース)は、1995年の約7割(アメリカ766百億ドル:日本545百億ドル)をピークに2016年にはアメリカ(1860百億ドル)の4分の一(494百億ドル)という状況にある。
人口もGDPも伸び続けるアメリカに対し、日本は国全体がシュリンクしており、小売業でも伸びているのは、実店舗からシェアを奪って急成長するECと他業態からシェアを奪って成長する一部の業態のみである。
近い将来、日本の小売業がアメリカと同様な状況に直面するとなれば、事態はアメリカよりもさらに深刻だろう。
そう考えると、現在の延長線上でノンビリ構えているわけにいかないというのが、小売業、特に実店舗中心に事業展開するチェーンストア企業の置かれた状況である。

◆物の充足から状況・状態の改善へ 物中心から自分中心へ
それでは、いったいどうすればよいのか。
以前、「物を買わない若者」をテーマにしたテレビ企画があった。その中で印象的だったのは「物よりも思い出が欲しい。」というインタビューへの答えである。
かつて、物がない時代には「物の充足」=ブランド品など高額品を買い、所有することに重要な意味があった。ある意味、それが自己実現、自己表現という解釈、価値観が支配していた時代ということになる。
現在の自己実現、自己表現の方法は、SNSで「いいね」をたくさんもらうことであるから、物を買い、所有することにはあまり意味を見出していない。
お菓子の国から抜け出してきたようなスイーツに行列ができるのも、その店に行った、そのスイーツを食べた、という経験を写真や動画に撮り、SNSにアップすることで完結する。参加・体験型消費は「物中心」ではなく、「自分中心」である。
一人の場合もあるだろうが、多くの場合は友達と一緒だからある意味プリクラなどと同じで時間の共有、同じ経験をしたということが重要になる。
SNSのアクセス数を増やし、「いいね」をたくさん得ることができれば、多くの人に認められたことになり、(自己)満足できる。
物中心から自分中心に変わったことによって、かつてのブランド品に代わり「盛れる(誇張できる)こと」「多くの人がアッと驚くようなシチュエーション、経験」が重要になる。

すでにバブルからバブル崩壊以降を知る年代には、物をたくさん買い、所有することでは決して豊かにはなれないということを経験的に知る人がたくさんいる。
また、経済産業省がまとめた「百貨店 衣料品販売の低迷について」(2017年2月経済解析室)によれば、『消費者は低価格帯の服を数多く買うようになっており、「被服及び履物」の購入先別割合をみると、「百坂店」が低下する一方、ファストファッションの台頭などにより、「ディスカウントストア・量販専門店」、「スーパー」、「通信販売(インターネット)」などが上昇していることが分かりました。特に世帯主が30歳未満、30歳代の若い世帯は百貨店で洋服をあまり買わなくなっています。』とある。さらにファッションレンタルサービス(シェアリングエコノミー)利用者の7割強がこの年代にに集中していることにも注目している。
商品に対する価値観の変化が購買行動に現れ、その結果、大きなチャネルシフトが起こっていることが分かる。
現在のトレンドから将来の方向を考えれば、単に高いだけの商品を買うよりは、そこそこのモノを「知恵」や「工夫」によって上手く使い、楽しい時間、経験を共有した方がよいというように変わるのだろう。
舞鶴若狭自動車道 西紀SA(下り線)フードコートの「ガチャめし」や大分県別府市の湯〜園地計画のようにアイデア次第で多くの人が集まり、さらにSNSなどで拡散することを考えれば、お金がモノではなくコトに有効に使われていることが分かる。
「ガチャめし」は1回500円でガチャを回し、出たメニュー(最低でも600円相当、運が良ければ2000円相当の料理)を食べられるというもので、何が食べられるかはガチャ次第というゲーム感覚が受けている。
大分県別府市の湯〜園地計画は、YouTubeで100万回再生で計画を実行をうたい、支援総額81,828,088円を集めて実行された遊園地を温泉バージョンに変えた期間限定のイベントである。
ある意味、現実離れしていたり、本当にそんなことやっていいの?というようなコトに人が反応していることが分かる。
難しいのは、これまで「物」を売ることで収益を上げてきた人、そのためのインフラをコトに切り替えて収益を上げる仕組みに変えることができるか否かである。
ガチャめしはその中間ということなのだろうが、ビジネスモデル、頭の切り替えには時間がかかるだろう。

最高益をとらえたソニー 復権の象徴としてAIBOを使ったプラットホームはどうだろうか⁉

◆ソニー復活 ?
5月23日、ソニーは経営方針説明会で、平井一夫社長が20年ぶりの営業利益5,000億円達成(2017年度グループ連結)に自信を見せたという。
この発表を受けて、過去最高益である1998年3月期 5257億円を超える可能性が言われる一方で、果たしてソニーは本当に再生され、この業績が今後とも継続していけるものなのか、と懸念を表す声も聞こえてくる。
たしかに、この20年の間にVAIO、ウォークマンなど、ソニーらしさを象徴するブランドは影を潜め、画期的とも思えた犬型ロボットAIBO、二足歩行型ロボットQRIOはチームもろとも消失した。(様々な状況については、日経ビジネスONLINE「オレの愛したソニー」にインタビュー記事としてまとめられており、参考になります)

振り返れば、かつてソニーはウォークマンという音楽プレーヤーによって若者のファッション、ライフスタイルを大きく変えるほどの影響力を持っていた。街中、通勤・通学、ジョギングなどのスポーツシーン、…等々、あらゆる場面に音楽を持ち歩くことを可能にし、消費者の生活シーンと音楽を融合させてしまった。
ところが、その後アップルは、iPod、iPhone、iPadなどの機器(物)をiTunesというアプリによって束ね、ソニーがウォークマンによって生活シーンの中に浸透させた音楽の世界全体をまとめ上げてしまった。
ソニーが一つ一つの機器(物)を販売していたのに対し、アップルは個々の機器とアプリによってプラットホームを構築し、音楽シーンと共に機器を持つ消費者全てに網をかけてしまったことになる(機器、ソフト、決済、個人情報、購買履歴、…等々)。

また、かつてソニーはAIBOという犬型ロボットでも、世界中を沸かせている。長年空想の世界でしかなかったロボットの実物を一般消費者の家庭の中に送り込んだことで、多くの人々は来るべき時代への夢を大きく膨らませることになる。
AIBOは、コアなソニーファンの心を鷲掴みにしただけでなく、生産、フォローが終了した後々までもオーナーたちの心にいつまでも深く愛され続けている。
部品生産が終了し、修理が難しくなったいまでも、元ソニーの技術者らが作った「株式会社ア・ファン(習志野市070(4014)7955)」が、自作部品や代用品、あるいは同社に送られてくる壊れたAIBO(献体)から抜き取った部品で修理をしており、ソニースピリッツを持つ元社員たちが使命感を持ってケアしている。
また、2015年11月19日にAIBOの集団葬も行われている。

ソニーがAIBOの生産をやめたのが2006年というから、わずか10年の間に時代は大きく変わり、現在ではAIやロボットが話題にならない日はないくらいに、次世代を支える重要テーマとして注目されている。
そう考えると、なぜソニーがロボット分野から手を引いてしまったのか疑問が残る。
ソフトバンクのPepperをはじめ、人と会話するAI、人型ロボットは珍しくなくなり、急速に進化し続けている。しかも当時と違って、iPhoneやPepperはオープンイノベーションによって、その使い勝手、技術、ソフトなど、あらゆる側面で日々向上し、進化し続けている。単独企業が単独機器を創り出すのとは本質的に違い、様々な視点からマーケットを拡大する知恵が集まってくる仕組みが支える進化である。
マーケットの中心に居続けることができるか否かを決定づける重要な要因といってもよいだろう。
現在は、AmazonのEcho(AIアレクサ搭載)、Google Home、Microsoft(AIコルタナ)、Apple(AI Siriベース)、HP(AIコルタナ)、Line、…等々、AIスピーカーの開発は目白押しであり、それらと個々の家電製品などをつなぐ上でオフィスや住宅向けOSが必要になったとも言われている。
今後、オフィス、住宅などにおける様々なシーンの中心をどこの製品・仕組みが押さえるのかという巨大マーケットの奪い合いが始まっているといってもよいだろう。

◆ ソニー復活の象徴が見えない…..欲しい!
このような歴史を見てみると、失われた20年といわれるこの間、ソニーはいつも初めに手を付け、可能性ある形を創り出しているにもかかわらず、その可能性を育てることができず、他社に大きなヒントと共に、大きなマーケットチャンスまでも提供してきたように思えてならない。
失われた20年は、モノ創りではなく、時代=マーケットが読めず、経営に負け続けた歴史といってもよいだろう。もし、ソニーがこれらのチャンスを有効に生かすことができていたなら、Appleとここまでの差はついていなかったと考えるのは筆者ばかりではないだろう。(ソニーの時価総額はアップルの約20分の一)

2018年3月期には、いよいよ最高益に迫るというが、残念ながらそこにかつての「ソニーらしさ」が感じられない。もし、それが本物の復活なのであれば、「ソニーらしさ」も同時に復活させてもらいたいものである。
筆者は、これまで新聞、雑誌などでも提案してきたが、ソニーの象徴の一つであるAIBOをプラットホームとした新規ビジネスを立ち上げて欲しいと考えている。(何年か前に新しい体制になり、様々な新規事業を検討しているということでソニーに提案したこともあるのだが…)
現在は、AIBOが生まれた時代とは比べものにならないほど、AI、デジタル技術、ネットワーク技術が発展し、また、消費者の状況も大きく変わっている。
高齢化・過疎化・非婚化が進み、全国には年齢を問わず一人暮らし世帯が溢れている。高齢者はペットを家族代わりとし、またアニマルセラピーなどの効用も認められているが、ペットの高齢化に伴い飼育を継続することも難しくなっている。
このような環境与件を考えると、AIとホームコントローラー機能を搭載したコンパニオンロボットニーズは非常に高まっている。高級おもちゃではない実用と癒しを兼ねたロボットへのニーズである。
仮にAIBOというソニーの象徴をベースにしてプラットホームを構築すれば、様々な点で多くのメリットがある。AI搭載は当たり前として、自分で動くことができ、小型である必要がないから多くの機能を搭載することも可能になる。ペットにも、話し相手にもなる情報端末であれば、少人数化した世帯の様々な生活シーンを幅広くカバーすることが可能になる。
各種センサー、カメラは一人暮らしの高齢者、赤ちゃん、ペットなどの監視や留守宅のセキュリティになり、コンパニオンとしての役割、話し相手、映像や音楽の他、情報端末として様々な機能を果たすことができる。自分で充電や自己診断、アップデートもできれば、面倒なケアはあまり必要ない。
ネットワークにセキュリティ企業を加えて安否確認や防犯、各種小売業、飲食業、給食センターなどを加えて日常的な物品、食事などの発注端末、医療機関を加えて健康状態の確認、テレビ電話での問診等も可能になるだろう。
もちろん、AIスピーカーのように家中の家電製品とつなぐこともできるから、機能をユニットに分けて組み合わせるような形になるだろう。
企画とアイデア次第で一大ビジネスに発展する可能性もあるが、問題は「物」ではなく、様々なサービスを提供する「システム」としてビジネスモデルに仕立てることである。
物創りへのこだわりを如何にその物を生かすための新たなシステムへとつなげるのか、ソニーの復活、新たな進化を占う上での重要な課題といってもよいだろう。

イオンスタイル碑文谷に見る総合スーパー(GMS)再生の道程と課題

総合スーパー(GMS)の新しい形として業界が注目するイオンスタイル碑文谷を見る機会があった。
4月初めの平日昼間、春休みということもあり、子供が走り回っていたのが印象的だった。
色々な見方があるだろうが、新しいコンセプトの店ということもあり、
①フロア構成、売場づくり、商品構成など建物全体として思想、そして現実問題として売上が取れるか否か
②オープン時の売場がその後も維持可能か、さらに発展させることができるか否か
③次の時代のプロトタイプに成り得るか否か などにウエイトを置いて見ることにした。

多層階の既存建物への出店はいろいろと制約条件が多く、使い方がとても難しい。フロア別に顧客対象、商品分野を分けるのが一般的だが、現在の基準からすると、それではワンフロアの面積が狭すぎて満足な品揃え、使い方ができない。実際に食品は1、2階の2フロアを割くことで、ワインなど酒類の思い切った品揃えとイートインなど飲食スペースの確保を可能にしているが、紳士・婦人衣料はかなり難しいつくり方をしている。
( http://shop.aeon.jp/store/15/7947260/shop_info/floor_guid/7099/ )
店内を一巡してみると、商圏、消費者の店の使い方などを熟考した結果と思われるが、街のホットステーション、日常的な用件が、ここ一箇所ですますことができるコンビニエンスストア(ワンストップショッピング=物販+サービス)に徹しようという割り切りが感じられる。
喫茶・イートインなどの飲食、銀行ATM(1階)、美容室・ヘアカット、書店、洋服のお直し、写真スタジオ、幼児教室・こども英語教室、クリニック、旅行代理店、銀行・保険・証券、画廊、ヨガスタジオ、…等、個々の規模は小さいが機能的には盛沢山である。
売場面積は約16000㎡弱というが、バブル期の総合スーパーのように巨大迷路といった感はなく、総合スーパーの本質=現代風ワンストップショッピング(物販+サービス)としたことに好感が持てる。
おそらく、かつての総合スーパーと同様なポジションを現代に再現したら、こうなったということだろう。
問題があるとすれば、紳士・婦人衣料だろう。ここだけは極端に狭い売場にもかかわらず、バブル時代に拡大した物販の思想から抜け出せていない。
売場面積の制約もあり、通路が狭く、品揃え、商品量も限られている。混み合えば、人がすれ違うことも難しいし、商品量が少ないから商品を選ぶこと(いろいろな商品の中から選ぶというだけでなく、限られた商品量だから多くの人が一度に見ることもできない)も難しくなる。
また、商品が売れれば補充が間に合わない、あるいは売上以前に売場の維持・管理で行き詰まる可能性もあるだろう。

総合スーパーの変遷を改めて考えると、商圏のライフステージ変化のサイクルが大きく影響していることは明らかである。
総合スーパーが急成長した1970~80年代、70年の日本人の平均年齢は31歳、団塊の世代を中心にしたニューファミリーが消費を牽引しながら台頭してきた時代である。
結婚、子供の誕生、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、就職...と、子供の成長に合わせて必要な「物」は3~5年サイクルで変化する。それに合わせてさまざまな商品の買い替えが起こるから、総合スーパーも大きく成長できた。「物」の需要が旺盛な時代である。
現在、日本の平均年齢は46歳を超える。子供が成長し、独立した後に残る高齢夫婦のライフステージは大きく変わることはなく、改めて必要になる「物」も限られる。
また、住関連商品の需要は入学、卒業、入社、転勤など、転居を伴うような転入/転出に伴って発生するから、高齢化した商圏では住関連商品の需要も限定的なものになる。
さらに、商品購入チャネルの多様化によって、限られた商圏内で営業する総合スーパーの役割は大幅に限定される。
商品だけを見れば、食品や日用品のウエイトが高まったということになるのかも知れないが、視点を変えてみると、現品販売商品と注文後の配達、引き取りでよい商品のうち、現品販売商品のウエイトが高まったと言うことができるだろう。
そう考えれば、せっかく食品などの現品販売商品や日常的に必要なサービスを充実させたのだから、通信販売で十分対応可能な紳士・婦人衣料などを現品販売しようとはせずに、サテライト店舗のような形で端末を使って注文できる通信販売にしてしまえば、建物全体としては新しい総合スーパーの形、あり方がハッキリ打ち出せたのではないだろうか。
通信販売で幅広い品揃えの中から選んでも十分成り立つ商品まで、狭い売場に現品を押し込み、十分に商品管理できない売場環境の中で扱うことは、誰が考えてもムリがある。
現品が必要な商品中心に品揃えし、銀行などのサービスもすぐその場で必要になるサービス中心にして、急がないモノについてはデジタル技術を使って窓口・手続きだけと割り切れば、ずいぶんと売場もスッキリする。
そう割り切ってしまえば、紳士・婦人などのファッション衣料を如何にストレスなく通信販売するのか、というマン・マシンインターフェイスの技術・ノウハウの問題に絞ることができる。まさに現在のデジタル技術、AIの得意とする分野だろう。うまくデジタル技術を応用すれば、昔の西友能見台店ではないが、それ自体が話題となり、販促ツールとしても有効に働くことが考えられる。
この点が改善できれば、オペレーション、商品ロスによる売上・利益・坪効率などの改善余地も大いに見込めるから、総合スーパー再生の道程もある程度は見えるようになるかもしれない。
一つ問題があるとすれば、約16000㎡の売場で、どれだけの売上を実現するかだろう。数多くのテナントを入れているから、建物としての損益分岐点は確実に下がっている。あとは、物販、特に現品販売よりは通信販売のような売場面積、商品在庫と関係のない売上をどれだけ稼げるかによって決まる。まさに、総合スーパー再生の道程が見えるか否かの重要なポイントといえるだろう。

2017年度 芝浦工業大学授業資料

用語の確認 2017 

思考法・論理パターン 2017

イトーヨーカ堂は立地の良さに甘んじていたのか?

総合スーパー(GMS)の中で唯一駅前立地に集中しているのがイトーヨーカドー(店舗の標記 企業の場合はイトーヨーカ堂)であり、業績低迷はこの立地の良さに甘んじていたためであるから、立地を生かしていけば、他社よりも有利で回復しやすいというような記事をどこかで見かけた。
イトーヨーカ堂が立地に甘えていたかどうかわからないが、自社物件が少ないことを考えれば、立地を放置していたのは大家さんということになる。
また、駅前立地が果たして郊外立地と比べて有利かというと、よほど大掛かりな再開発で道路からすべてをつくり直すのであれば別だが、普通に考えれば必ずしも駅前立地だから有利だとは言えない。
イトーヨーカドーは2000年以降、店舗を南関東一都3県に全店舗の6割を集中させているが、なぜかその後に岡山に出店するというちぐはぐなことをやっている。
ザ・プライスに業態転換したのは、全て古くからある駅前立地の店舗であるが、問題は、一都3県の駅前立地だから、立地が良いということにはならないということである。
そもそも買い物難民が初めて言われたのは横浜市栄区の公田町団地であるし、イトーヨーカドーからザ・プライスに業態転換した五香店近くの常盤平団地は孤独死で注目された団地である。
つまり、関東圏の駅前立地であっても、ベッドダウンの行きつく姿は地方のそれと変わらない、もしくはもっと悲惨なのかもしれない。
最近発表になった閉店店舗を見ても、かつての大型店(もちろん駅前立地)や地方に後から出店した店舗である。
人口推計を見れば分かるが、①現在の人口規模に関係なく、都市によって年齢構成(≒人口ピラミッドの形)には10~20年の差が見られる。②現在、高齢化が進み、人口も減少している都市は、将来の老年人口増加率が小さい。③現在、老年人口比率が低く、人口が増加、あるいは人口減少が少ない都市は、将来老年人口の増加率が非常に高い。
要するに、現在、人口が減少し、高齢化が目立つ地域は年齢構成の変化が小さく、人口が増加、あるいは減少幅の小さい都市は年齢構成の変化率が高い。現状では都市のタイプによる年齢構成の違いが大きく見えるが、今後20~30年の間に収束し、多くの都市が似たような形(人口ピラミッド)になる。
ざっと大枠で見ると、我国の人口は、1950年代の9000万人から50年かけて12800万人になり、その後また50年かけて9000万人まで人口が減少する。前半の50年で都市タイプによる様々な違いが顕著になり、後半の50年で一定の形に収束していくような感じなのだと思う。
問題は、鉄道をベースに発展してきた都市の多くが、ターミナルかベッドタウンであり、サラリーマンが住むという意外何の産業も持たないベッドタウンが高齢化(定年退職後)すると、人の移動がなくなり、活力が著しく低下して八方ふさがりになることである。既にそのような危惧を口にする市長もいるように、「人口」をキーワードに状況を見ていけば容易に推測できることである。

タイムフリー、ロケーションフリー、セクションフリー、コストフリーが当り前の時代であることを考えれば、問題は「どこに立地するか」ではなく、「どのようなマーケットを対象にするのか」に移っている。
新商品や新業態など未だに「物」をベースにしか物事が理解できない人には、いつまで経っても理解できないかもしれないが、マーケットは物ではない。
マーケットは、消費者にとっての意味であり、それによって消費者の消費行動が変わらなければ、いつまで経っても既存マーケット内での新陳代謝、シェアの奪い合いにすぎない。新商品や新業態の危うさは、マーケットそのものが他へ移ったことに気づかず、いつまでも同じマーケットに留まれば、いずれ限界を迎える。
「イトーヨーカドー駅前立地論」なるものも、残念ながらマーケットが全く見えていないと言わざるを得ないのではないだろうか。
本質を見誤ると、いつまで経っても迷路から抜け出すことはできないが、キチンと見定めることさえできれば、意外とシンプルに次のステージに移行することができるだろう。要は見えるかどうかということになるだろう。

論理が違うと議論はかみ合わない

「論」は物事の道理を整理したもの、「理」は物事の道理、要するに「論理とは物事の道筋を整理したもの」だとすれば、かみ合わない議論の多くが、前提が違っていたり、「論」や「理」が違っていたりする。
最近では、3月3日の石原元都知事の記者会見だろう。
小池都知事は、あくまでも「ファクト(事実)」が知りたいと言い続けているのに対し、石原元都知事はファクト(事実)ではなく、自分の立場を言っている。
途中からあまりひどいのでテレビを見るのをやめてしまったが、一番分かっていないのは、たぶん質問に当たった記者達だろう。
質問と称して、自分の意見を言う、感情的に中傷する、石原元都知事を責める(別に石原元都知事を擁護するのではなく、記者達は質問することはできても、感情的に公の場で人を責める権利があるわけではないから、どこかに勘違いがある。単純に不思議である。)、…。
記者会見が限られた時間で行われることを考えれば、質問は順を追って事実を積み重ね、実際にどのようなことがあったのかを解明するように組み立てなければならない。あるいはキーになるピースを見つけるための質問が行われる必要があるが、おそらく、そのような仮説を持たずに会見の場に臨んでいるのだろう。
事実を積み重ね、構造やメカニズムを整理するには「質問術」が必要になる。質問の仕方一つで答えが変わり、必要な答えを積み重ねていくことで全体の構造やメカニズムが見えてくる。感情的に攻めれば、相手も感情的に対応するから、論理とは全く異なる世界に迷い込んでしまう。
ディベートなど論理を戦わせることは、少なくとも、物事を報道する立場にある記者にとっては最低限必要な素養のはずだが、残念なことにどうも記者会見を見ている限りでは、そのようには考えていないらしい。
多くの勘違いが週刊誌的には面白い状況をつくり出すが、これではいつまで経っても「ファクト(事実)」にはたどり着けない。どのような経緯によって、物事が起こっていったのかという最も重要なことが解明されるには多くの時間を要することだろう。

多くの場面で、論理の違いは問題を引き起こし、また問題解決を難しくする。
一見すると同じに見えることでも勘違いすると、いつまで経ってもゴールにたどり着くことができなくなる。
例えば、上位目的と下位目的のレベルを反対にすると、目的と手段が逆転してしまうし、基準を間違えてしまうと判断は正反対になる。
シンプルに論理を整理すれば単純なモノ・コトも、ひとたび論理を間違えれば、状況は錯綜し、複雑に絡んだ糸はほどけなくなり、迷路に迷い込む。
いずれ学校でも子供たちに問題解決について教える時代がやってくると思うが、問題が定義できないままに、いくら問題解決、問題解決と唱えてみても、何も生まれない。
何年やっても世界に通用しない英語に多くの時間と費用を割いているのと同じことがプログラミングをはじめ様々なところで起こってきても不思議はない。
DIAMOND onlineに「PDCAを問題解決手法と教える高校教科書の危うさ」(三谷宏治:K.I.T.虎ノ門大学院主任教授2017.03.02)という記事が出ていたが、知らない人が何も分からないまま(分かったつもりになって)進めると無知・間違いが拡散してしまう。
帰納法的に具体と抽象の両方を知ることのない人が、机上の知識という抽象の世界だけで組み立ててしまう危険性がここに凝縮しているような気がする。演繹法を否定するつもりはないが、演繹法しか知らない人達の危うさは認識する必要がある。

まずは何が問題か整理することから始める必要があるが、それにはキチンと問題を定義することが重要である。
問題を定義することなく、ただ感情に流されているだけでは、ただの主張や非難に過ぎず、議論=「議;意見を出して話し合う」「論;物事の道理」にはならない。
物事の道理はシンプルであるから、変に迷路に迷い込むことがないように「ものの見方・考え方」を整理することから始める必要がある。

 

サービスの生産性が上がらない理由⁉

ギリギリでもらった年賀状に慌てて郵便局へ行って年賀状を数枚買おうとしたら、大行列に30分近く並ばされてしまった。
「ハガキ数枚買うのに30分」という状況には笑うしかなかったが、これが我が国のサービス業の生産性が上がらない理由と考えれば、講演や原稿のネタにはなる。
自販機さえ置いてくれれば数秒で済むことだが、郵便局のスタッフは、みな一生懸命で対応している。
仕事柄、状況を観察すると、①いろいろな手続きで来ている人が同じ窓口に混在している(なぜ分けないのだろうか?)、②自販機など機械に置き換えれば済む内容も結構あるが、全て人手に頼っている(???…)、③せめて手続きの所要時間を考えてエキスプレスカウンター(スーパーのレジだと買上点数3点以下など時間のかからない人に対応)を設ければ、ここに並んでいる人達の総待ち時間は大きく改善されるはずだが….など改善点は素人でもすぐに見えてくる。

こんなことを正月早々経験するとも思わなかったが、なかなか経験することもないことだろう。
10年ほど前のデータだが、全国の渋滞による経済的な損失を国土交通省が年間12兆円と試算している。
そう考えると、こんな行列の損失は全国で年間いったいいくらあるのだろうか?そのうちお役所関係(民営化も含む)が、どのくらいを占めているのだろうか?
阿部首相が「生産性運動60周年記念パーティー(主催;日本生産性本部)」の席上で「日本再興戦略の中で、経済成長の切り札としてサービス産業の生産性向上を位置づけた」とし、サービス生産性革命の必要性を訴えた、というのに、これではいつまで経ってもサービスの生産性向上は無理なのかもしれない。

「みんな一生懸命やっている」のに生産性が上がらないのは、経営者の脳力の問題。
「みんな一生懸命やっているんだから…」が言い訳になるのは、日本的勘違い。トンチンカンな正論は多くのモノ・コトを狂わせてしまう。
たくさん楽して、なおかつ生産性を革命的に高める知恵が求められている。
難しく考えなくても生産性は簡単に上がる。
問題は何でも難しくしてしまう人がいることである。

売場の科学

◆売場を科学する

「売場は生きもの」であるから難しい。良くなるとドンドン良くなっていくし、崩れだすとドンドン悪くなる。だから面白い。
理由はいろいろと考えられるが、売場をつくっているのが「人」、利用する・買っているのも「人」だからだろう。
ただし、残念なことに、この面白さが分かる人、知っている人、楽しめる人がどんどん減っているように思えてならない。

本部でバイヤーが売場展開マニュアルをつくって売場に流しても、実際にどこまでやれるかは売場次第(知識・技術・経験などのレベル+モチベーション+総人時を含めた職場環境=要するにヤルベキことができるだけの人員・時間が確保できるか否か)だから、出来栄えも様々になる。
店としての販売力、競合状況などもあるので一概には言えないが、良い売場を創って、それにお客が反応すれば、業績は上がる。機械的な作業に終始すれば、殺伐とした売場になり、お客もそのような状況には素直に反応する。
セルフサービス、チェーンストアが我が国に生まれて半世紀以上も経つのに、未だにどうにもならないところが何とも言えない。
「人的(特に伝える人)」な運営に終始しているが、人を育ててない(現場だけでなく、仕組みをつくったり教育を行う側の人も)からレベルがマチマチになる。
実際に売場を経験してみれば、時系列管理とそれぞれのタイミングにおける商品構成がポイントであることは分かる。
売場表現(レイアウト、陳列・演出)や販売促進は時系列で変化する商品(の意味)を上手く表現・演出する手段であるし、それらを実現するために様々な売場作業が必要になる。
したがって、作業もスケジューリングも上位の目的ではなく、あくまでも上位にある様々な目的を達成するための一手段にしか過ぎないことになる。
これらを整理すると、➀期間売上・利益を最上位の目的として、⓶それを達成するための時系列(目標の細分化)での予算(ダラー=金額)、⓷その額を達成するための手段としてタイミングごとに適正な商品構成(Σ単価×数量=ユニットとダラー)、さらに⓸それらを目的とした売場表現と販売促進、そして⓹それらを目的としてのその手段としての作業・スケジューリングという体系が成り立つ。
ところが、実際に見てみると、これらの目的=手段の体系が上手くつながり、仕組みとして確立し、運用している企業、店舗はほとんどないと言ってもよい。
誕生して半世紀以上たつにもかかわらず、最も基本的な仕組み=システムもないままに、人手をカットし、教育も表面的にしか行わずに運営されていることになる。
ローコストオベーレーションとは名ばかりの人件費カットの結果、最後に残ったのは最低限必要な発注、補充、レジ精算だけになる。
これでよい結果が出れば不思議と言うしかないだろう。

よくあるケースが「発注」教育である。発注と言っても発注器具の操作や手続きの説明しかなく、どのような状況で、どのような商品を、いくつ持つ必要があって、だからどのようにして発注数量を算出すればよいのか、…という「発注量算出の基本的な考え方や具体的な場面と算出方法」については教えていないケースが圧倒的に多い。時間や教える側のスキルの問題で教えられないといった方が正しいかもしれない。
売場づくりや商品の陳列・演出方法についても同様である。
商品の特性、時期によっての商品の持つ意味に応じた展開方法、見せ方、演出方法などが理解できなければ、どんなに売場に商品を並べても、それは商品ではなく、ただの物でしかない。このように本質的なことが理解できなければ、いつまで経っても物売りからは抜け出せない。
よく事例として取り上げるのが卓上ガスコンロとボンベである。
冬は鍋用、春は花見、ゴールデンウィークや夏のレジャーシーズンにはバーベキュー、そして地震など万が一の時に備えては非常用というように、その時々で意味を変える。同じ商品でもその時々で意味が変わるから商品構成、陳列や演出、包装形態、販売価格帯など、様々な要素をその時々に合わせて変化させる必要がある。
ただPOPに商品名と価格を表示し、売場に置いているだけでは、その時=場面における商品の本当の意味が伝わらない。
お客が商品を買うには意味がある。だから同じ商品が同じ価格で売っていても、その時々で売れ方が変わる。
売場の科学は奥が深い。
その奥の深さを理解し、追求することは非常に重要であるはずだが、それが単に時代のブームでしか起こらなかったことが小売業界が上手く進化できなかった大きな理由なのだろう。
大手企業のカリスマ経営者の思い付きが長年かかっても「科学」になれなかったことがどこか象徴しているような気がしてならない。