勉強を遊ぶ、仕事を遊ぶ

 誰が「勉強は良いことで、遊びは悪いこと」と決めたのだろうか?
 勉強は良いこと、遊びは悪いことという価値観は、あらゆるモノ・コトをおかしくしてしまう。(厳密に言えば、勉強も遊びも、明確な定義なしで、いきなり良い悪いと決めつける思考、論理=何故そう結論付けるのかという根拠が理解できない)
 筆者が知る経営者の中には「仕事を遊んでいる」人達が何人もいる。まさに仕事が遊びという点では筆者とよく似ている。
 好きで魚を飼って一時期は10本も水槽を持っていたし、クレマチスは100鉢、バラも50鉢ほど持っていたことがある。好きでやっているから、インターネットで調べたり、本や雑誌を読み漁ることは苦ではない。育てる過程で遭遇するさまざまなトラブルに対して、必死で調べ、試し、工夫する。そんなことを何年も続けていれば自然と詳しくなるから、辞令をもらって仕事でバイヤーをやっている人よりははるかに詳しくなる。バイヤー教育をするにはもってこいである。
 学生も、与えられた課題を自分のものとして遊べるようになった子はあらゆる点で飛躍的に変わる。
 課題に取り組むことを義務、あるいは勉強などと変に堅苦しく考えないで、創造性を働かせ、楽しく遊べるようになれば、従来とは異なるステージで課題に取り組むことができる。問題意識も、調べ方も、考察の仕方も一皮むけるから、通り一遍ではなく、本質により近付くし、従来には無かった全く新しい視点から物事を見るように変わる。
 残念なことは、「遊び」を「勉強」や「仕事」の対立概念というように刷り込まれている人達は、あたかもそれが悪いこと、不謹慎なことででもあるかのような価値観で物事を見る。
 「学校の成績がよくて頭もいい子」「学校の成績はいいけど決して頭の回転が速いとは言えない子」「学校の成績は悪いけど頭の回転が速く、賢い子」というとらえ方をすれば、日本で一番割を食っているのは賢くても学校の成績が悪い子である。
 学校の勉強が合わなくて嫌いだからやらないだけのことなのだが、成績が悪いと全てにおいて評価されない。認められないから、本人も自信を持てないし、せっかく優れた才能があったとしても生かされるチャンスに恵まれることが少ない。誰かそれなりの人に見いだされるというチャンスに恵まれなければ、才能は開花されずに埋もれたまま一生を終わらせてしまう。本人にとっても社会にとってももったいないことである。
 一時期、モチベーション3.0というものが注目されたことがある。
 モチベーション1.0が生理的動機付け(生きるため、生き残るため)、モチベーション2.0がアメとムチという外発的動機付け、それに対し、モチベーション3.0は興味や好奇心、向上心など内発的動機付けだという。
 マズローの欲求階層とも似ているが、要するにやらされたり、仕方なくやるのではなく、自己実現、自らを高めたいという欲求が人を動かす源になるという。「好きこそものの上手なれ」という諺があるから、自分を高めるなどという難しいことを考えなくても、単純に好きで好きでたまらずに、ただ夢中になっているだけというだけで十分だろう。
 仕事や勉強を遊ぶというのも全く同じである。モチベーション3.0やマズローの欲求階層など、表現は違っても、人間を動かす根源にあるものが何なのかという点では本質的に同じことを言っている。
 筆者は常々「勉強とは工夫すること」と学生には言い聞かせている。工夫するには、変に堅苦しくするよりは、自由に発想を解き放つ方がよいに決まっている。難しい話をするよりは、好きなことをとことん突き詰めて得た結果から経験的に法則性を見出していく方がはるかに得るものは多い。
 限られた人材、限られた時間を有効活用し、大きく成長させるには勉強も仕事も遊べるようにすることが大切である。
 そのための環境整備=教育できる人材の育成、社会的な価値観の変革が必要である。

 

 

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