なぜ、いま論理なのか

「論理」「ロジック」という言葉をよく使う。ある結論に導く・行き着くためのプロセスであり、一定の法則に基づいてテーマから結論に行き着くプロセスに理屈としての正しさ、矛盾がないことが重要になる。 ただし、論理的な正しさがあっても、世の中、全てその通りに動いているかといえば、実際にはそうでない方が多い。単純に好きか、嫌いかという心情的・感情的な問題や正しく論理を理解しないまま、物事が決まリ、動いていくケースの方がはるかに多いからである。誰が考えてもおかしいと思うような論理の矛盾があったとしても、指摘されるまで誰も気づかず、何事も起こらず、何十年も過ぎることもあれば、取り返しがつかないような重大な事態を引き起こすこともある。多くの場合、前者の比率が圧倒的に高く、何かあったとしても影響が軽微であるために、論理はあまり重要視されない。あるいは、何か起こったとしても国民性、文化と言って済ませてしまうことが多いのかもしれない。
ある安保法案に関するTV番組で有名な評論家が「日本の平和主義は、安全保障のことを考えないことが平和主義だから…」という発言をしていた。反対はするが、その後「…だからどうする」という具体論、方法論の提示がない。おそらく、莫大な赤字を抱える財政問題も、年金問題、高齢化問題、人口減少問題、原発問題、…などもみな同じだろう。
一見すると、理屈の正しさがあるようでも、現実問題として、それでは具体的にどう実現するのかというと方法論が付いてこないから解決にはならない。国民投票までして、すったもんだした挙句に、結局はEU案とほとんど同じ案を選択したギリシャを見ても分かるが、具体論(特に費用・資金の裏付け)がないままに心情論に突き動かされるとかえって事態をこじらせる。日本では歴史的に見て、学校教育でも家庭教育でも論理的に物事をとらえるトレーニングをしてきていない。  何でも理屈で考えろとは言わないが、どこかでバックボーンとして一本筋が通った論理を確保しておかないと、大変なことが起こる。
財政問題、年金問題、高齢化問題、人口減少問題、原発問題、…など、どれをとっても冷静に考えれば、どこかで理屈の通らないおかしなことが放置された結果、今になって取り返しのつかないことが起こっている。
すでに70年以上も前に2000年以降日本は高齢化して人口は減少することが推計されていた。ヨーロッパでは日本に先駆けて少子高齢化に陥った国があるからも日本もどうすべきか、議論をし、対策をとる時間は十分あったはずである。
原発問題も素人から見ても「何で....?!」と思われる稚拙なことがアチコチに放置されたまま現在に至っている。おそらく片道切符のような状況でここまで進んできてしまったのだろうから、反対と言ってみても簡単には逆戻りができない。福島一つとっても今後どのように処理をし、その期間とコストがどのくらいかかるかも想像がつかないのに、はるかに規模の大きな核のゴミをどうするのか、廃炉の費用はどうするのか、…といったことについては誰も答えを持っていないのだろう。論理の正しさよりは、その時々の状況や利害に流された結果である。
そのような意味では、人口が減り、ますます難しい時代になることを考えれば、再度「論理的であること」の重要性を見直す必要がある。
物事が正しい論理とかけ離れた所で決まり、進んでいけば、結論を先送りするだけで状況はどんどん難しくなっていく。

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