「学年とクラスをなくせば不登校は激減する」苫野一徳氏(熊本大学教育学部准教授)という記事があった。(President Online 2019.7.9)
そもそも市民社会は、生まれも育ちもモラルも価値観も国籍も宗教も異なった、きわめて多様な人々からなる社会だから、学校も本来であれば、できるだけ多様な人びとが出合い、知り合い、多様性を「相互承認」する機会をもっと豊かに整える必要があるはずだ、という。
なぜ、「学校には学年、学級があるのか」「学校を『ごちゃまぜのラーニングセンターにしたい』」という問題意識も、現在の状況を見ればよく分かる。
あとは、そこから先の方法論なのかもしれないが、これらのことを実現しようとすれば、現在の6・3・3制や義務教育の形をどこかで根底から崩す必要がある。
その場合は、これまで出来上がった体制、インフラの後始末、学校という建物、膨大な数の教職員(組合も)、教科書・教材メーカーなど、様々なモノ・コトにどう対処すればよいのかというとてつもない課題に対処しなければならない。
そう考えれば、別項でも書いているように「義務教育を拒否する権利」というものと同時並行に進めていくのもよいだろう。
学校、教育委員会の対応にどうしようもなく、いじめの具体的な状況を父親がSNSに投稿した、あるいは小学生が10万円超、ひどいケースでは100万円超の金をせびる・たかる・恐喝するいじめが明らかになった、教師が生徒に対していじめ行為を行う・扇動する・暴力をふるう、教員同士の悪質ないじめまでが明らかになるなど、信じられないような陰湿ないじめがアチコチで起きている。
誰が見ても明らかな犯罪行為が、学校という閉鎖社会・村社会の中で起きると、何故か「いじめ」という言葉でオブラートに包まれ、さらに隠蔽されてしまうから被害者は報われないし、加害者側も管理する学校・教育委員会も罪悪感が少なくなる。
日本の出生数を見ると、1984年に150万人を割り込み、10年後の1993年には120万人を割り込んだ。その後増減を繰り返しながら2005年110万人を割り込むまでに12年、2016年100万人を割り込むまでは11年かかっていた。
ところが、2016年に100万人を割り込むと2019年にはわずか3年で90万人を割り込むことが確実になっている。出産年齢にある女性の減少、晩婚化、非婚化など、様々な原因が考えられるが、いずれにせよ、多少、合計特殊出生率が上がっても、すでに出生数が増えることはない状況にまで陥っている。
一方、団塊の世代が70歳代に入り、死亡数は今後高止まりすることは確実であるから、人口は放物線を描くように急激に減少する。
そんな状況にあるのに、乳幼児が親に殺され、学校に入るといじめで自殺する子供が後を絶たない。
子供の数が減り、一学級の人数も減って、よりよい環境で教育が行われているかといえば、むしろ逆の方向に向かっているとしか思えない。
そもそも錦の御旗のように「教育」と言ってはいるが、いったい何をもって「教育」とするのか。子供たちをどうしたいのか、実際に現場で起こっていることもブラックボックス化していて一般からは見えずらくなっている。
すでに知識、情報はインターネットからいくらでも得ることができるから、重要になるのはそれらをどのように組み立てて目標とするものを創り上げればよいかという問題意識、目的意識、モチベーション、視野の広さ、思考、論理の組み立て方、協働の仕方などであるが、このような環境の中で本当にそんなことが可能なのか甚だ疑問である。
情操教育など人間として….云々とアルベキ論も聞かれるが、それが今の学校のような制度疲労を起こした枠組みの中で本当にできるとは思えない。仮にできるのであれば、陰湿ないじめや不登校は起こらないはずである。
何か起こるたびに教師が、…、学校が、…、教育委員会が…、第3者委員会が….、といって、隠ぺい体質が糾弾され、マスコミの前で謝る姿が報道される。
教師による生徒へのいじめや教師同士の悪質ないじめまでが明らかになれば、現状での限界がわかる。
せめて、動物園の折の中に無防備な子供を押し込めるような制度を拒絶できる仕組み、権利が必要である。
全く社会経験がなく、しかも外界と隔絶した村社会・閉鎖社会よりは、社会経験が豊富な人達の中で、全く違う次元、システムで知識、経験を学ぶ方がよほど有効だろう。
テレビで離島に留学する子供たちの姿を見たが、自然に恵まれた環境の中でのびのびと様々なモノ・コトを五感で学んでいる。
学校・学習要綱という枠組みに縛られなくとも学べることはたくさんある。というよりは、むしろ陳腐化し、制度疲労を起こした村社会・閉鎖社会の折の中に閉じ込めることなく、自由に学べる環境を与えた方が子供たちのポテンシャルを引き出すことができると考えるべきだろう。
現在のような状況をリセットしない限り、情操教育ばかりでなく、グローバル化したデジタル社会でも通用できない子供たちをたくさんつくり出してしまう。
少子高齢化だけでも大変な状況にあるのに、将来を支える子供たちまでキチンと育てることができないのでは、この先が思いやられる。
先人の言葉ではないが、「こうしちゃおられん」状況に対処する必要がある。
コメントを残す