テレビで中学受験を追いかけた番組企画を見る機会があった。また、勉強ができる子はどのような勉強の仕方をしているかなどの記事を目にすることも増えたような気がする。
勉強は教えるが、勉強の仕方は教えていないなどという記述を見ると、それでは、そもそも「勉強とは、いったい何だと解釈しているのだかろか?」と疑問に思ってしまう。
「勉強しろ」といっても「勉強の仕方」は教えない。「勉強の仕方を教えてないじゃないか」と疑問を呈している人が、実は「勉強とは何か」については触れずに、算数はこうして、英語はこうしてという標準作業の提案をしている。
これでは、いつまでたってもクリエイティブな子供など育つはずがない。
もし、テストの点を取りたければ、AIを用いている塾の方が合理的だろう。
テストの点は問題の範囲、傾向、解き方のテクニックなど、いくつかの要素に分けて分析し、取り組めば確実に上がることは分かっている。それを合理的に行うAIのプログラムも開発されて効果を上げている。
問題は、テストの点数が悪いとダメという決めつけ、勘違い、それ以前に「勉強とは何か」という最も基本的なことを明確にしない教育の構造とそれに気づかずにテストの点数、標準偏差値ばかりを追いかけている大人たちといったところだろうか。
どう考えても、もっとも重要な幼児期から小学校、中学校で「勉強とは何か?」ということが理解できていないから、教え方も教えている内容も違っているのだろう。
「勉強」は「いろいろなことに興味が持てるよう好奇心や観察力を養うこと」であるし、「モノ・コトを分かりやすくするための工夫」であるはずだが、どうも知識やテストの点を取ることと勘違いされる。
別に知識を否定しているのではなく、知識ならWeb上にたくさんあるから、それをコンピュータと競争しても始まらないことに早く気付くべきだと考えているだけである。
いわゆる賢い子は、知識の得方、記憶の仕方、論理の組み立て方などを工夫して、自分なりのパターン、法則を見出して使っている。
テストの点数の取り方=あるパターンの問題の解き方を覚えても使わなければすぐに忘れる。そんなことに大切な成長期の時間を費やすことなどもったいなくてしょうがない。
以前も別項に書いたが、義務教育、今の間違った教育体制を拒否する権利が必要である。
重要なことは、いろいろなモノ・コトに興味を持ち、観察して情報を得、それを工夫して理解しやすく整理する(法則性を見出す)能力=実技を身につけることである。
この能力は、状況が変わっても、表面的な知識が陳腐化しても活用できる。一定の範囲に限定されるが、よほどのことがない限り高い普遍性を持つ。
そのような能力を身につけるために、決して答えを与えず(質問によってヒントは与える)、自ら工夫して能力を開花する手伝いをすることが本来の「教育」のはずだが、今はそれを大きく外れて考える、工夫するというチャンスを奪ってしまっている。
少なくとも文盲率が高く、「読み・書き・そろばん」が重要だった時代のままが現在の教育というのでは、子供の可能性をはじめから否定しているのと同じである。
長らくコラムの更新がございませんでしたので、ご病気かと心配しておりました。
これからも頑張って下さい。
ご心配いただき有難うございます。書きたいテーマはたくさんあるので、少しずつ書いては下書きフォルダに貯めているのですが、溜まるばかりでなかなか仕上がらず、といった状態がしばらく続いています。
徐々に仕上げてアップするようにします。