新型コロナウイルスと正常性バイアス(normalcy bias)  ⋆bias 偏見、先入観、思い込み

3.11東日本大震災から月日が経ち、正常性バイアス(normalcy bias)という言葉もほとんど聞くことがなくなった。
正常性バイアスは、災害時に被害を大きくする要因として注目されている人間の意識のことである。
もともと正常性バイアスは、一々些細なことに反応しないようにする心の安全装置の一つとも説明されるが、「まだ大丈夫」「まさかそんなことは起こらないだろう」という気持ち=油断、自分に都合の良い解釈が被害を大きくする。
さらに、そこに多数派(集団)同調バイアス(majority synching bias=迷った時に周囲と同じ行動をとる)が加わり、正常性バイアスと同時に起こると一層被害を大きくすることが指摘されている。(要するに、みんながやっているから自分も…という安易な意思決定の仕方である。責任はどこにもないから、何か起こっても誰も悪くない?という、誠に無責任な、ある意味日本人的な状況といえる。)

そこで新型コロナウイルスへの対応である。
誰も小説や映画に出てくるような、こんな状況が実際に目の前で起こるなどとは思わなかった、あるいは今でも思っていないというのが正直なところだろう。
武漢、イタリア、スペイン、ニューヨークなどの惨状をテレビで見ても、まだ日本で実際にそんなことが起こるはずはないと思っている人がたくさんいるはずである。
悲惨な状況にある海外で実際に働く医師たちの取材・警告ビデオもテレビで流れることが増えているが、それをテレビで見ているのは自宅にいる人ばかりだから、関係ないと思っている人たちにその情報はおそらく届いていない。
どんな場合でも言えることだが、大多数の人と外れて行動している人たちは、情報のルートや量、質も異なる。情報が違っていることが認識を違わせているということだろう。

3月の連休の緩みは明らかに政府の間違いといえるが、緊急事態宣言が出ても商店街や潮干狩り、鎌倉などの様子を見れば、多くの人たちが正常性バイアスの真っただ中にいることは確かだろう。
感染し、回復した人たちのインタビューを聞けば、明らかに事態を軽く見ていた、ナメていた、反省しているといった何とも言えない気持ちが伝わってくる。
分からないから、可能な限り、想定できる以上に注意を払うのか、分からないから仕方ない、その時はその時と安易に考えていつも通り行動するのか、その違いは大きい。
ただし、新型コロナウイルスに関しては「分からない」のではなく、もう海外の様子などから多くのことが分かっている。
分からない人たちは、その情報を知らないか、あるいは正常性バイアスの中にいるかのどちらかである。ただし、その人たちはいずれ自分が加害者になる可能性があるということまでは認識していない。(都会を離れ、地方に疎開するという人たちも同じである)
自分の勝手で感染した人と必死になって医療現場で働いて感染した人が、どちらも同じに扱われることは不公平だし、許せないという批判もある。
物事の道理、道義上の問題である。
今一度、状況を冷静に見直す必要があるだろう。

絵(図)を描いて頭を整理・活性化しよう!

モノ・コトを考える時には常に絵を描く(図に描く)ようにしている。理由は「全体を目で見て確認できるようにすること」である。
モノ・コトを考える時、何か拠り所がないと思考が整理できずになかなか前に進まない。目で見て確認できると積み木を組み立てるような形で一つずつでも形づくることができる。さらに複雑なモノ・コトを対象とする時にはジグソーパズルを組み立てるような感じになる。そんな時には一つの図が出来上がるまで何回も書き直し、出来上がるまでに3ヶ月から半年近くかかることも珍しくない。
ただし、このようにして出来上がった図は何十年経っても使える普遍性があるから、3ヶ月から半年という時間はむしろ短いといってもよい。
図に表す、あるいは絵を描いて整理・確認する内容はモノ・コトの関係性、法則性などが中心である。場合によっては、いくつかの手順を経ることで一つの目的を達成するために複数の図を作ることも珍しくない。ある意味、論理的思考と試行錯誤の組み合わせだから、行きつ戻りつ答えに向かって収束していく。
探しているのは原因=結果(特性=要因)、目的=手段、I/P=Process=O/P、時系列、構造/メカニズム、グルーピングなどであり、これらの関係が組み合わさることでいろいろなモノ・コトの真理に近づくことができる。
単に思考の整理というよりは、思考の道具を用いた思考そのものといってもよいだろう。
大切なことは、全体が目で見て確認できること=visibility(可視性、一覧性)を得ながら(具体的に確認しながら)思考を進めることである。
学生にもA3の紙を渡して絵を描くことを推奨している。慣れない人は紙を持て余すが、中学、高校などでトレーニングできている人だとマーカーで色分けするなどして絵の中に要素を整理していく。
筆者が「絵(図)を描いく」ことを推奨するのは、よほど頭がよいか、直感が優れている人でもなければ、モノ・コトを瞬時に整理・理解することなどできないからであり、凡人は絵という道具を使いながら一つ一つ思考を整理するという技術を身に着け、習熟することが大切だと考えているからである。
できれば、小さな子供の時からこのような習慣を身に着けるようにしていくことが大切であるが、残念ながら大学に入学し、初めて経験するという子供は多い。
つまらないことを暗記することが勉強などという勘違いが根強く残っているが、そんなことに時間を費やすのであれば、遊びながらでも勉強(モノ・コトを理解しやすく整理する)の仕方を身につける方がはるかに有意義だろう。
根本的に「教育」の本質を見直すことをしないとグローバル化、デジタル化する時代に全く通用しない子供をたくさんつくり出してしまう。

新型コロナウイルス対策で見えてこないコンサルティングファームの顔

新型コロナウイルス対策に関しては、誰が見てもぎこちないとしか思えない動きが目立つが、冷静になって考えてみると、本来であればプロジェクトマネジメントが得意なはずのコンサルティングファームの顔が全く見えてこない。
今回の新型コロナウイルス対策は当初から「戦争」という言葉を使って表現されていたにもかかわらず、国という総合的なシステムをマネジメントすることに対して、的確な助言・実施指導能力を有するはずのコンサルティングファームの存在が生かされていない。
本来「戦争」ということであれば昔からロジスティックス、後方支援の重要性は認識されているはずである。しかし、現状を見れば通常9割ともいわれる後方支援、マネジメント、現状分析、戦略・戦術策定、人員・物資、各種システムなどの提供、供給が追い付かず前線は疲弊している。
NHKが盛んに過去の新型ウイルスに対する特集をテレビで流しているが、それを見れば何をどうすればよいのかという方向性だけは理解できる。
ただし、以前からパンデミックに対応しているのは公衆衛生や感染症、医療分野の人たちだけという偏った分野の人たちばかりである。
要するに現象が起こっている現場と統計的に処理したマクロデータ、それらと現実、実態としての世界を結び付け、現実の世界をコントロールするための戦略を練る部隊と実施組織が不足しいる。
今回の厚生労働省の新型コロナウイルス感染症対策を見ても分かるように当初から厚生労働省を主幹部署として取り組まれてきた。https://www.kantei.go.jp/jp/singi/novel_coronavirus/taisaku_honbu.html
新型コロナウイルス感染症対策専門家会議のメンバーを見ても医療、感染症分野の専門家ばかりである。
先日、NHKスペシャル新型コロナウイルス「瀬戸際の攻防 感染拡大阻止最前線からの報告」という厚生労働省の対策チームの活動を追ったドキュメントを放送していたが、戦略立案から実際の分析、様々な部署への説明、交渉、記者会見まで、あらゆることを担っているのはまさに医療分野の専門家たちである。
具体的な実施は各都道府県市区町村の保健所や医師会、病院などであるが、彼らのほとんどはこのような事態に対して訓練を受けていない。しかも一つの組織として統制の取れた行動をとることなど不可能な状況にある。スーパーバイザーのような人材、システムが必要になる。
不足するマスク、手袋、防護服、消毒剤、人口呼吸器、ECMOなど、様々な物資とともに医療に関係する人員、訓練された人材の不足が問題化している。
これらは専門家会議の範疇とは言い切れないまさに後方支援、ロジスティックスの問題である。しかもこれらの多くは、事態が悪化する前、そのようなシナリオが描けた時点ですでに様々なリスクを想定し、事前に準備しておくことが可能であったものばかりである。(要するに万が一、こうなった時にはこうするという予測に基づき、あらかじめ準備をしておくことが非常時には重要になる)
どんな形態の店を重点的に閉め、どのように保証するかも同様である。具体的に社会・経済活動に対し、どのように対処するべきか、具体的にどんな問題が起き、それに対してどのような支援が必要になるかは、具体的に企業を指導する経理・会計のプロやコンサルティングファームの方が明らかに詳しいから的確な答えが出る。
資金の不足に関してはクラウドファンディングなどIT系の企業やコンサルティング企業の方が詳しいし、実行する術を数多く持ち合わせている。
現状は、それら我が国の中に埋もれている数多くの様々な資源を生かすような組織的動きをリーダーシップをもって主導するような組織が存在していない。
大阪で防護服の代わりに雨合羽が必要だといえばすぐに10万着もが集まった国である。誰かが良いアイデアを出し、投げかければ形になるのは早い。不足しているのは、新型コロナウイルス対策という一つの目的のもとに整理された「場」である。
個々に見ていけば、マスクをつくりだした企業、消毒薬をつくりだした企業などバラバラに企業独自の動きはあるが、体系的に整理されていないからまとめるとどうなっているかわからないし、流通経路もバラバラである。
マスクに関しては、台湾などが合理的な形で国民に届くような仕組みをつくりあげているのに対し、日本では相変わらず中国人が何回も並んで買いあさっている、お客が販売員に悪態をつく、…などの報道がみられるから、製造の問題もさることながら流通の問題をどうにかすれば少しでも解決に近づけることができる。
SBG孫正義氏が月間3億枚のマスクを確保したように、商品の確保は企業に割り振ることで計算できる。
重要なのは、それを病院や公共性の高い仕事をしている人達にいかに優先して配布するかであり、一般の人たちには公平に届けるかである。
すでに小売店での販売に難しさがあるのであれば、年齢や家族構成、職業、健康状態など個人の特性に応じた優先順位(買う権利)を明確にし、健康保険証などでチェックするなど販売の仕組みも必要になる。
物事には、工程の前後関係があるものと、パラレルで同時並行して進められるものがある。今回の新型コロナウイルスに関する様々なモノ・コトの推移をみると、同時並行でできた後方支援の準備が、事態が進んである程度の結果が見えてから初めて動いたためにどうしても後手後手に回ってしまったということが数多く認められた。
プロジェクトマネジメントでは少なくとも複数のシナリオを描き、最悪の状況に対する準備に関してはあらかじめ準備をしておく。特に前後関係がなく同時並行でできるものはあらかじめ手を付けておく。仮に多少の無駄が生じたとしても、多くの場合その準備は後々無駄にならない。

いずれにせよ、現状は、感染を防ぐという医療分野の専門家チームだけですべてを賄い、あとは放置状態にあるようにしか思えない。医療分野の後方支援もノーコントロール、個々の行政の知恵・工夫に委ねているから、品質がバラけるだけでなく、考える時間や試行錯誤が無駄になる。まさにフランチャイズシステム、チェーンオペレーションのようなシステムが有効になる。しかもまとめてやった方が重複が避けられるばかりでなく、つくる際に必要な人材の質・量も確保しやすい。
体系的に実施レベルでの後方支援が行えるような多分野を総合的に扱える組織、IT、AI、ロボットなど各種デジタル技術やSNS、あるいは本業が止まっても現状に応用できるような技術や設備、人材を有する企業・個人など、現在ある資源をすべて洗い出し、それらを有効活用して状況改善が少しでも進むようなプロジェクトマネジメントができるプロ集団が必要である。
仮に現在ある技術、設備、人材などの資源とそれを現在困っていることに使うためのアイデアが分からなければ、広くSNSで情報やアイデアを募ればよい。
こんな事態に有用な資源を埋もれさせておくなどもったいない。生かす知恵とともに「場」、そしてそれを動かす組織が必要である。

新型コロナウイルスと正常性バイアス(normalcy bias)  ⋆bias 偏見、先入観、思い込み

3.11東日本大震災から月日が経ち、正常性バイアス(normalcy bias)という言葉もほとんど聞くことがなくなった。
正常性バイアスは、災害時に被害を大きくする要因として注目されている人間の意識のことである。
もともと正常性バイアスは、一々些細なことに反応しないようにする心の安全装置の一つとも説明されるが、「まだ大丈夫」「まさかそんなことは起こらないだろう」という気持ち=油断、自分に都合の良い解釈が被害を大きくする。
さらに、そこに多数派(集団)同調バイアス(majority synching bias=迷った時に周囲と同じ行動をとる)が加わり、正常性バイアスと同時に起こると一層被害を大きくすることが指摘されている。(要するに、みんながやっているから自分も…という安易な意思決定の仕方である。責任はどこにもないから、何か起こっても誰も悪くない?という、誠に無責任な、ある意味日本人的な状況といえる。)

そこで新型コロナウイルスへの対応である。
誰も小説や映画に出てくるような、こんな状況が実際に目の前で起こるなどとは思わなかった、あるいは今でも思っていないというのが正直なところだろう。
武漢、イタリア、スペイン、ニューヨークなどの惨状をテレビで見ても、まだ日本で実際にそんなことが起こるはずはないと思っている人がたくさんいるはずである。
悲惨な状況にある海外で実際に働く医師たちの取材・警告ビデオもテレビで流れることが増えているが、それをテレビで見ているのは自宅にいる人ばかりだから、関係ないと思っている人たちにその情報はおそらく届いていない。
どんな場合でも言えることだが、大多数の人と外れて行動している人たちは、情報のルートや量、質も異なる。情報が違っていることが認識を違わせているということだろう。

3月の連休の緩みは明らかに政府の間違いといえるが、緊急事態宣言が出ても商店街や潮干狩り、鎌倉などの様子を見れば、多くの人たちが正常性バイアスの真っただ中にいることは確かだろう。
感染し、回復した人たちのインタビューを聞けば、明らかに事態を軽く見ていた、ナメていた、反省しているといった何とも言えない気持ちが伝わってくる。
分からないから、可能な限り、想定できる以上に注意を払うのか、分からないから仕方ない、その時はその時と安易に考えていつも通り行動するのか、その違いは大きい。
ただし、新型コロナウイルスに関しては「分からない」のではなく、もう海外の様子などから多くのことが分かっている。
分からない人たちは、その情報を知らないか、あるいは正常性バイアスの中にいるかのどちらかである。ただし、その人たちはいずれ自分が加害者になる可能性があるということまでは認識していない。(都会を離れ、地方に疎開するという人たちも同じである)
自分の勝手で感染した人と必死になって医療現場で働いてが感染した人が、どちらも同じに扱われることは不公平だし、許せないという批判もある。
物事の道理、道義上の問題である。
今一度、状況を冷静に見直す必要があるだろう。

働き方改革 ???

新型コロナウィルスの影響からテレワークが注目されている。働き方改革が注目されていたこともあり、これを機会に一気に仕事のやり方が大きく変わるのではという期待もある。ただし、専門家の見方は一時的な避難で終わるのではと、なかなか厳しい。
もともと働き方改革なるものが政府の肝いりでスタートしたこと自体に無理がある。
仕事の仕組み、やり方そのものが変わっていない現状を無視して残業をなくし、休みを取れというから、現場の混乱、聞こえてくる悲鳴は多い。
残業がダメなら家に持ち帰ってやるしかない。有休をとるといって家に持ち帰って仕事をやれば残業代が減る。単なる労働強化でしかないから現場への皺寄せは計り知れない。ブラックな状態が水面下に潜って固定化されればサービス残業よりもひどい状況が起こる。
そもそも仕事といってもルーチン業務から個別対応まである。機械的な処理が可能な定型業務・手続きから、個々の状況に応じて検討し、いろいろと調整しながらつくり上げなければならない仕事まで様々である。
また、同じ部署、同じ名前の業務をやっていても、人によって考え方、優先順位、仕事の手順・やり方が違うから、同じ課題に取り組んでいても結果に行き着くまでのプロセス、工数、アウトプットのレベル・精度などは違う。
自分でコントロールできる仕事もあれば、相手次第でコントロール不能な仕事もある。
もっとも重要な点を無視して、枠組みだけを提示してどうにかしろというのは、いかにもお役所的発想である。
テレビで専門家が「日本の商習慣」の問題を指摘していたが、そればかりでなく、それまで個々人がやりたいようにしかやってこなかった=言い換えれば、まったく標準化されることなく、個人の好き嫌い、得手不得手、慣習などに任されて放任、放置されてきた業務プロセス、やり方、手法などに全く手を付けないまま、枠組みだけをどうにか取り繕うことには、根本的に無理がある。
さらにPCが当たり前の時代になって完全に個々人の業務の手順、進め方、意思決定の仕方がブラックボックス化している状況を考えれば、業務の定義=目的・アウトプット・精度など、業務処理の論理から始まる一連のプロセスを整理しなければ働き方改革なるものの実現は難しい。
そもそも「業務とは何か」という最も基本的な定義が整理できていないケースは多い。
ゴール(目標・方針・アウトプット・精度など)が明確になっていないケースやプロセス・手法などが明確になっていないケースでは個々人の志向、能力、スキルレベルなどに応じてあらゆるモノ・コトがバラけてしまう。
もともと業務自体は目的に対して手段が体系的に位置づけられ、それらが組織に対して割りつけられるという形で体系化されるべきものである。
個々の手続きは、目標に対して情報収集、分析、総合(検討)、評価(基準)、決定(判定基準)、文書化というプロセスを経る。
身近な例が、ある目的に対する情報収集やデータ分析だろう。目的に応じてどんな情報、どんなデータが必要で、それらはどこから入手するか、…などは、たとえ定型的な業務であっても、経験や能力によって変わってしまう。
Excelによるデータ分析一つとっても、どんなデータを用い、どんな加工をして、どんな見方をすれば、状況がよく分かるのか、データ分析に関する経験やスキルレベルで結果は大きく変わる。しかも同じアウトプットを出すのにExcelの処理方法は複数あるから、スキルが高い人と低い人では時間や手間に上下何十倍もの大きな差ができた上に結果や精度にまで影響してくる。スキルレベルの違いが大きく影響する。
分析ばかりでなく、企画の立案などクリエイティブな仕事についてもまったく同様であり、引き出しの多さ、システム的な思考の違いは如何ともしがたい。
特にモジュール化(ブロック玩具のように個々の要素を標準化し、それらを組み合わせることで様々な形をつくり上げる)を前提とする場合と、ゼロから全てをつくり上げるのでは手間、時間の違いは桁違いである。

多くの業務がブラックボックス化している現状を考えると、働き方改革とはいってみても、個々人の仕事のやり方、判断の仕方まで踏み込んで整理することがないまま枠組みに無理やりはめ込んでつじつまを合わせてしまうことになる。
業務コンサルの現場では、使用するフォーマット(使用する情報やデータを指定)や使用データ、処理手続き、見方・検討の仕方など一連の意思決定プロセスに関係する手順と手続きを整理する。
実態の把握をするために、現状使っているフォーマットを集め、手続きの仕方を確認することもあるが、組織内で行われている重複(多くの人が同じ情報収集やデータ分析を重複してやっている)や無意味な手続きを確認する。
多くの場合、個々の業務を現状分析し、改善するよりは、モデルとなる業務システムを当てはめて全てをモデルに合わせてもらうところからスタートした方が明らかに早い。
処理手続きを標準的なものに限定し、そこでのデータ処理にはExcelなどの標準フォーマット(いわゆる計算図表)を設定して配布する。そうすることで使用するデータも標準化でき、ほとんどの処理作業がコピペで済むことになる。
イレギュラーについては、別枠で対応し、必要に応じて標準的なシステムを修正してそれを標準モデルとすればよい。
とりあえず、標準的なこと以外はやらないようにすれば、すべてが単純化できるし、データ処理もExcelなどの標準フォーマットへのデータのコピペで結果を導くことができる。データの読み方もマニュアル化すれば、個々に考えて判断する必要がなくなるから短時間で済み、精度も安定する。
実は個々に教育をするよりは、全員に標準的な仕組みを踏襲させるようにした方が全体のレベルを上げるのに早いだけでなく、一度に多くの人を一定レベルにまで引き上げる教育効果もある。
本質は業務システムに関する設計思想であり、個々の能力、特性を生かそうとするのであれば、いかに無駄な作業を省いて簡素化するかである。もちろん、情報システムのレベル、精度も重要であるが、それも業務全体に対する設計思想で決まる。
人の能力や機械の性能が企業の財産であることを考えれば、それらを生かすも殺すも設計思想次第である。
働き方改革をきっかけにいま一度根本から見直すことも必要だろう。

クラスター?

クラスターという言葉が今年の流行語大賞にノミネートされそうな感じであるが、業界によって、その意味はずいぶんと違っている。
一般に理工系の人間であれば、クラスターと言えばクラスター分析となるだろう。
もともと集団とか群といった意味であるが、クラスター分析では似た特性のグループに分けて統計処理をするし、筆者はクラシフィケーションという言葉で商品特性による分類概念をマネジメントや商品構成に使っている。
そこで一つの疑問が残る。
実は特性の異なる大きな集団はそのままで状況をとらえるよりは、特性の似たものを集めていくつかのグループに分け、それぞれのグループの特性に合わせて対処した方が効率が良い。
ある意味、マネジメントの基本だが、それ以前に科学的方法の鉄則、キホンのキともいえる方法である。
もう何十年も学生には一番初めの授業で教えているが、「科学とは、現実の全体、或いはその特殊な領域、または諸側面に対する系統的認識 (広辞苑)」とある。言い換えると「 事実を正しく知る 」 「 事実の相互関係から仕組や法則性を見出す 」ということになる。
具体的には、たくさんあるものから似たものを集めてグループ化し、グループに共通する特性(仕組みや法則性)を見出してモデル化する、というのが科学的な方法の手順である。

なぜ、いまこんな話をするかというと、新型コロナウイルスへの対応で大阪方式なるものが注目されている。
単純に言えば、救急対応と同じで、はじめの段階で症状の重さや緊急性で層別(グループ分け)し、重症患者に対して必要となるベッドや医療整備を優先して確保しようということである。
ある意味、マネジメントの基本であるし、メーカーの工場などで生産管理や工程管理、品質管理をやっていれば当たり前に行われていることである。
それを前提に考えれば、医療の現場、このようなリスクマネジメントの現場ではマネジメントや科学的方法の最も基本となる原理原則が認識されていないことになる。
東日本大震災の時の原発事故ではじめて分かった原発設備の予備電源もそうであったが、科学的なマネジメントの世界では信じられないようなことが平気で行われている。
予備電源が同じ建屋の中になかったということが指摘されていたが、そんなことが問題ではなく、電気が使えなくなった時の冷却に同じ電気という原理で対応していたことに驚きを覚えたのである。あの時は結局電気がどうこうなったとしても通電できなかったということか後になって分かったが、おそらくチョットでも科学的なマネジメントをかじった人間であれば、冷却という目的に対して、電気という原理が使えなくなった場合の予備は別の原理を考えるはずである。例えば水であったり、化学反応で低温を実現するような全く異なる原理である。
リスクマネジメントという以前の段階で、科学的ではないし、マネジメントの基本からも大きく外れている。
恐ろしいのは、科学者と名のつく人たちが専門分野ばかりやっていて、マネジメントの基本については全くの無知であることだろう。政治家や官僚も同様なのかもしれない。

新型コロナウイルスに関する広報などについても、様々に指摘されているように日本に不利な情報ばかりが海外に報道され、イメージが定着している。
一度出来上がってしまったマイナスイメージを払しょくすることが如何に難しいかということが理解できていれば、どのような広報活動をすればよいかは自ずとわかるはずである。
いろいろな面でマネジメントの重要性が問われるべきだろう。

リスクマネジメント…?????

世の中、大変なことになっているが、こんな時にも「リスクマネジメント」という言葉が全く聞こえてこない。
ネットで調べるとリスクマネジメントと名の付く学界や協会もあるが、こんな時にもマスコミでは名前が聞かれないのは残念である。
何十年も前から団体や任意の資格をつくるなど動きはあったようだが、ネットを調べて出てくるのは、高額の通信研修の勧誘など怪しげな話ばかりである。

 本来、このような時にこそリスクマネジメントの本領発揮だと思うのだが、あまりにも範囲が広すぎて専門家が足りないのか、あるいは日本という国ではリスクマネジメントという概念に対して意識が弱いのか、枝葉末節の話ばかりで全体としてどのような思想、手法でプロジェクトマネジメントを行うのかという議論が見えてこない。
 元大阪府知事橋下徹氏が、自身の経験を踏まえて、このような状況が見えない場合は取り合えず最悪の場合を想定して多少大きく押さえておき、後になって状況が見えてきたら修正すればよいと言っていたが、医療ばかりでなく、外交、経済など総合的にマップを書いてバランスを見ながらシナリオづくりをしていくような手法が見えてこない。
 国会もへ理屈ばかりで危機的状況とは思えないやり取りに終始しているから、いつまで経っても実効が上がる結論が出せないでいる
 そもそもこんな非常時に根拠を示せ、説明しろということが平気で言えるセンスは国を滅ぼしかねない。「2番じゃダメですか!」はこんな緊急時にも発揮されてしまった。
 いまさら、後手後手に回っている、根拠を示せといっても何の解決にもならず、むしろ対応する動きを停止させ、すべてが前に進めずに状況を悪化させるばかりである。
 緊急時に的確な指示のもとに動けない現場は困るし、イライラするどころか諦めの境地にある。
 現状を見れば公衆衛生と医療現場の基準の違いが混乱を引き起こしている。オリンピックや外交、強いては経済などとは異なる価値観が支配するからいつまで経っても全体像が見えてこない。
 盛んに指摘されているように海外に対するアピール不足も相対的に状況を悪化させている。全て揃ってワンセットという理解がないのは致命的である。

 いずれにせよ、リスクマネジメントという概念が机上論だけで終わっていては、本当の危機的状況には対処できない。
 実務レベルでの体系的な具体論と技術者などからなる実行組織、そして何よりもこのような事態に際して全体を統括し、マネージできるプロフェッショナルな頭脳集団が必要である。
 大きな組織はいらない。必要なことは専門家に聞けばよいから個々の詳細な専門知識も不要である。
 本当の意味で必要なのは、様々な情報を総合的にまとめ上げて、全体としてのリスクやチャンスなど様々な可能性を整理してシナリオをつくり上げることができるプロフェッショナルな頭脳集団である。
 時間との勝負で重要なことは、時系列で個々の要素を把握、それらを総合し、様々な可能性、チャンスとリスクを想定したシナリオを時間軸に基づいて作成することである。
 意思決定者に分かりやすい資料を作成して提示し、説明、助言など、意思決定のサポートをすることも重要な仕事である。それとともに現場が的確に動けるためのマネジメントも必要になる。
 ある意味、表に立つ役者を動かすのは、裏で真剣勝負をする黒子であるが、それがバラバラ、あるいは不在であれば、意思決定者は専門ではない個々の情報、意見に振り回され、結論を出さなければならなくなる。
 典型的な例が意思決定、実行の遅れだし、400億円ともいわれるマスクだろう。

 現状を考えると、今の政府、官僚組織では緊急時には何事も意思決定できないし、実行できないことがよく分かる。それに加えて野党が机上論で足を引っ張るからさらに状況は悪化する。
 いまさら縦割り組織を嘆いてみても意味がない。
 そうであれば、政府に対して、全体像といろいろな可能性を基にしたシナリオを提示し、選択肢を提言できるプロフェッショナルな頭脳集団、政府が意思決定できるように状況を整理して的確に助言できるプロフェッショナルな頭脳集団を設置する必要である。
 平和ボケは怖い。   2020年3月5日

売上を上げるのは簡単!難しくせずに売上を上げよう!-1

◆売上を上げるのは簡単!難しくせずに売上を上げよう!
どんな企業でも売上と粗利率を上げることには苦労している。特に客数の落ち込みは売上に大きく影響するから、多少客単価を上げてカバーしたとしても、継続することは難しい。同様に、売上が減少しているからといって粗利率を上げようとしても簡単ではない。52週で売上と粗利率の関係を見ると分かるが、基本的に売上の高い週は粗利率が高く、売上の低い週は粗利率が低いといった傾向がハッキリと見てとれる。
もちろん、売価還元法であれば仕入れ次第で粗利率は変動するし、チラシや値下げの仕方によっても変動するから、それらイレギュラーを除外した時の話である。
このようなトレンドを考えれば、基本的にプロパー中心に売上を上げれば自然と粗利率は上がる。
机上の計算だけで客数が落ちたから客単価を上げる、売上が落ちたから粗利率を上げるというのは簡単だが、実際の売場にある法則性を見れば、そう簡単にはいかない。
時としては、現場を無視した空論が混乱を招くこともある。というか多いのかもしれない。
そんな状況にあれば、いろいろと考えすぎてしまうから、かえってモノ・コトを難しくして分からなくしてしまう。
多くのケースで、結果に結びついているのは簡単なことを徹底した時であり、決して複雑で難しいことではない。
◆無駄な商品をカットして、必要な商品のフェイスを広げよう
食品スーパーなど、日常的な商品を扱う業態で、なぜかアイテム数が増える傾向が見られる。
理屈は単純で、アイテム数が多いことが品揃えが良いという勘違い、アイテム数が少ないと競合他社に負けるという不安心理(科学的ではない) がほとんどである。
しかし、考えてみればアイテム数と品揃えの良さの間に必ずしも相関関係はない。同様に、売上との間にも相関関係があるとは言えない。
売上と直結しているのは商品構成と売場での表現であり、商品構成は品揃えする個々の商品を全体としてバランスさせることであるし、売場表現は商品の特性=お客の買い方(商品の売れ方)に見合った的確な陳列ができるか否かで決まる。
価格が重要な商品をディスプレーしてもしょうがないし、イメージで買う商品に大きな価格訴求POPを付けて山積みすればイメージはだいなしになる。同様に必要な時にしか買わない商品を日替わりやタイムサービスに使ってもお客の反応は鈍いだろう。
問題は、必要な商品、欲しい商品がリーズナブルな価格(消費者が買いたい、買ってもよいと考えている納得価格)で置いてあるか否かであるし、商品の特性(お客の買い方)に応じた売り方ができているか否かである。

もう一つは、買いやすさである。
勘違いをしている人は、食品スーパーのポジションがよく分かっていない。
食品、特に調味料などは特定のものを使い続ける傾向が強い。言い換えれば、品揃えの良さはアイテム数の多さではなく、自分が使い続けている、自分にとって重要な銘柄の商品が価格を含めて買いやすい状態で売っているか否かである。
アイテム数が多いと自ずとフェイス数、最大陳列量が減り、欠品の機会が増える。店側は補充頻度が増え、お客は探しにくくなるから、誰にとっても良いことはない。
そもそも商品にはいろいろなタイプがあるのに、そのタイプ分けも明確にできていないから、どんな商品でも同じに扱ってしまう。
常備し、定期的に買う商品/その都度必要になった時に買う商品、代替えが利かずその商品(銘柄)でなければだめな商品/他の商品でも代替えが利く商品、いつも同じ銘柄を買う指名度の高い商品/いろいろな銘柄を試して同じ商品はあまり買わない商品、お客が基準とする一定範囲の価格でないと買わない商品/価格に関係なく必要に応じて買う商品、いろいろな商品から選びたい商品/買うのが特定商品に決まっている商品、….等々。
言い出したらキリがないほど、商品には様々なタイプがあり、それぞれの特性に応じて売れ方=消費者の買い方は大きく変わる。
そんなこともわからずに何でも商品をたくさん集めればよいというのは、昔、ホームセンターが自嘲の念を込めて「品集め」と言っていたのとまったく同じである。
他の業態でのことだから学習効果はないのかもしれないが、小売業界全体として考えれば無駄が多い。
とりあえず、商品の売れ方=買い方の特性を理解して、その特性に応じた対応をすれば、無駄な品集めを止めて必要な商品に集中することができる。
「競合店には並びますよ」というメーカー営業の悪魔のささやきにも簡単には耳を貸さないことである。
メーカーにとっては納品=売上であるが、小売りにとっては納品=在庫の増加であって、必ずしもそれで売上が上がるかどうかは分からない。
新たに入れる商品が売上にプラスに働けばよいが、既存商品にとって代わるだけならその商品が売れる代わりに他の既存商品の売上が落ちる。
アイテムが増えた分だけ在庫が増えるから商品回転率は落ちる。棚割を作り、バイヤーが自らその棚割を崩すことにもなる。
小売店頭における商品構成、売場づくり、売上や粗利率、商品回転率、そして個々の商品の特性=お客の買い方、…など、基本的な関係さえ理解していれば無駄なことをやらなくても自ずと売上は上がる。売上が上がれば粗利率も上がるからこんなに良いことはない。
何事も原理原則、物事の道理に従って単純であることが一番である。

ワークマンの講演を聞いて分かったこと

1月29日マーケティング・テクノロジーフェアで㈱ワークマン 専務取締役 土屋哲雄氏の講演を聞いてきた。
注目される企業だけに、アチコチにいろいろな解説が増えているが、ある意味、当事者が説明している内容が最も分かりやすい。
限られた時間であったが、考え方や取り組んでいる内容について具体的に説明されていた。
細かなことを省いてシンプルに考えると、大きく2つのことがポイントになるのだろう。
一つは、商品は値下げしないで売り切る。
すべてが定番商品であれば、継続するからロットは大きく、値下げロスも出ないから粗利率も高い。多くのマスコミが商品の品質・機能・性能と売価に注目しているが、重要なのは値下げしないで粗利を確保する仕組み、要するに「定番」を頑なに守り、崩さないことだろう。あとは商品回転率だけであるが、これはやり方次第でどうにでもなる。
そのためには定番づくり、商品作りが真剣になる必要がある。1アイテム、1SKUでいくら売るか、いくら稼ぐかである。MDの鉄則である。

これは、昔バイヤーをやっていた頃からの鉄則であり、コンサルでアパレル商品部を指導する際の鉄則でもある。(タイプにもよるが…)
アチコチの商品に目移りし、スポット買いでアソート投入を繰り返していてはロスばかり増えて粗利の確保ができない。商品づくりにも集中できないからレベルの低い商品が増える。バイヤーも店も忙しいだけで何もいいことはない。

もう一つは、チラシを入れないことである。
定番とは別にチラシ商品を投入すれば、売場はスポット的に投入した商品の残でゴミの山になる。
商品の出し入れ、残の処理に明け暮れれば作業量は増え、売場も荒れて生産性が落ちる。
誰が考えてもわかることだが、フェイシングをキチンとしていても、住所を持たない商品が次から次へと投入されれば確実にフェイスは乱れる。
バイヤーがフェイシングを組み、自ら乱していく最も愚かな行為である。
多くの企業で見られる現象であるが、誰も直そうとはしない。
定番づくりをキチンとし、チラシを入れなくても、業績が上がればマスコミがこぞって取り上げてくれる。
金額に直せば、ものすごい額に相当する効果である。こんな上手いプロモーションはない。
ワークマンの凄さというか、賢さである。

小売業を複雑で難しいものにしてしまった責任がどこにあるかわからないが(多分マスコミと机上論や昔の経験をベースにしたのコンサルタント?)、シンプルに原理原則を守り抜いて業績を上げる企業が現れたことはよいことである。
複雑で難しいことが優れているのではなく、シンプルであることが最良であるという理解が進むことを望んでいる。
だれか早く「王様は裸だ」と声を上げるべきである。

香川県がネット・ゲーム規制条例案…?????

香川県がネット・ゲーム規制条例案を公表したと話題になっている。賛成、反対、いろいろな意見があるが、面白いのは、議論をすればするほど、認識、価値観のズレが明らかになっていくことである。
テレビを見ていたら、ゲームなどをやる時間を守れない子ほど学力が低い傾向にあるというグラフを示して、だからゲームをやると子供の学力が下がるというような議論をしていた。
誰が見ても議論のすり替えであることは明らかだが、脳学者 茂木健一郎が、はじめにゲームは悪いことだという前提があるだけではなく、「そもそも学力とは何かという解釈、定義そのものが違う(違うというよりば現状を考えれば、そのような価値観は時代錯誤、全くズレている)」というような発言をしていた。

まさにアナログ・ネイティブとデジタル・ネイティブの価値観の違いのような気がする。
昔は髪の毛を伸ばしただけでも不良と言われた時代があったし、エレキギターを抱えてロックをやっていれば不良という時代もあった。
どこかシルバーー・デモクラシーとも通じる部分があるが、一つ分かることは、次の世代をイメージし、デザインできない人達が、古い概念、価値観、思い込みだけでモノ・コトを(現状を維持する方向で)決めていくことのリスクが増しているということだろう。
ブラック校則(拘束)も話題になっているが、今の時代に….と驚かされるばかりである。
様々な世の中の変化が分からない(情報に触れる機会がない)人達が、将来の可能性の芽を摘んでしまわないうちに、どこかに保護する仕組みをつくっていかないと大変なことになる。
ただでさえ、人口減少、高齢化で大きなリスクを抱えている国なのに、政治ばかりでなく、将来を担うはずの教育までもが前に進むことを妨げているのでは、この国はいったいどうなってしまうのだろうか、と心配になる。
将来の責任をとれない人たちが旧態依然とした常識、価値観で正論(と思い込んでいる)を振り回すことの危険性を認識する必要がある。