幼稚園・小学校で改善の見方・考え方を教えよう‼

1.目に余る社会的なエラー 常識では考えられないヒューマンエラー、組織的構造的エラーをなくそう
通園バスの閉じ込めという痛ましい事故が相次いだ。その後、いろいろと対策が検討されたが、未だにヒヤリハット事例はなくならない。先日も園児21人を乗せた送迎バスが幼稚園についた際、4歳の男児1人を降ろし忘れて別の送迎ルートに向かい、途中で気付いたという。
添乗スタッフが目視による確認で男児を見逃し、降ろし忘れを防ぐ安全装置はエンジンを切らないと作動しない仕組み、さらに添乗スタッフと迎えた幼稚園の教諭がチェック表で確認する決まりを守らなかったという3つのエラーが重なった。
物理的に様々な装置を設置し、マニュアルなどの決め事やチェックリストなどをいくらつくっても、それだけで100%エラーはなくならないという典型的な事例である。どんな対策をとっても現場で使わない・使えなければ意味がない。

長年、現場で改善を指導してきた経験からすると、どんな装置を設置しても、操作が複雑では現場が混乱する。役に立たない装置は現場ですぐ分かるが、そのような声は上がらない。机上論で一生懸命つくったマニュアル・チェックリストは、厳密であればあるほど手間と時間ばかりがかかる。人手不足の現場実態とかけ離れれば、運用ができない・しないから、エラーを見逃しても問題発見が難しくなる。
「仏つくって魂入れず」、解決を急ぐあまり、問題の本質がどこにあるのか、どのような解決=ゴールを設定するのか、という最も基本的な改善トータルの設計思想、組織全体の共有がないまま手段・方法論だけで運用するのは最悪である。
過去の通園パスの閉じ込め事故、そして今回のようなヒヤリハット事例を見ると「仕組み」「管理」が実に安易に行われていることがわかる。「つい」「うっかり」「たまたま」で多くの園児が危険にさらされ、尊い命が失われている。
多くの人・組織、指導する行政が「施策の実施=手段」ばかりを重視し、「目的・ゴール=エラーの100%排除」から逆算して「結果を保証する」ための手順を怠るとこうなるという典型的な事例である。
かつて製造現場で取り組んだ品質保証の考え方、手順が有効であるが、残念ながらそのような知識・経験・知恵は一般社会にはない存在しない。複雑で難しく、特殊な世界のものであるが、現場実態に合うように分かりやすく翻訳すれば、その考え方・手順だけでも十分効果が期待できる。
ポイントは「単純で簡単」「いつ」「だれが」やっても必ず同じ結果になる仕組みを確立するという「設計思想」「100%エラーを排除するというゴールの設定」「そのための原理原則」を明確にすることである。
事故やヒヤリハット事例の構造を見ると、ある意味、性善説的に一つの手段で全てが解決すると思い込んで取り組んである。そもそも「人は間違える」「イレギュラーは必ず起きる」ということを前提として施策を設定していない。
100%エラーを排除するには、工程ごとに関連する要素を洗い出し、あらゆるエラーの入り込む可能性と排除方法を明確にして対処する必要がある。
今回の事例のように「たまたまエラーが3つ重なった」ことで起きる重大エラーは、各工程の小さなエラー(安易に見過ごしてきた)の可能性(まさかそんなことが起きるはずがない、きちんとやってさえいれば….といった根拠のない安易な思い込み)が放置されてきた結果である。

高度で信頼性が高いとされる99.9999%、いわゆるシックスナインでさえ100万回に1回のエラーが起こるかもしれないと認めている。日本に約10,000ある幼稚園が1台ずつバスを運営し、送り迎えしていれば50日に1件の割合でエラーが起こる確率である。実際にはバスの台数、コースまで加えればはるかに多くのバスが運営されているから、99.9999%などのレベルでは事故が頻発してもおかしくはない。
通園バスのような人命にかかわるケースに求められる100%と99.999999999….%は本質的に違う。しかも現場は人手不足、高度な教育訓練・動機付けもなかなか難しいとなれば、「単純・簡単で分かりやすく」「いつ」「だれが」やっても必ず同じ結果になることが求められる。決め事が人の資質やその場の状況に依存しない、「つい」「うっかり」「たまたま」などの要素が混入しない=完全に排除されることが必要になる。。
「結果を保証する仕組み」はプロセスの管理によってしか生まれない。装置を設置し、マニュアルやチェックリストを作ったらそれで終わりではなく、それらはエラーの100%排除という目的のための一手段、しかもそのほんの入口に過ぎないことを理解すべきである。

2. 「フールプルーフ(バカ除け)」
半世紀以上も前、作業者の手・指を落とす事故が頻繁に起きていたプレス加工の現場では両手でスイッチを押さない限り機械が作動しないような仕組みに変えた。さらに周囲にセンサーを設置し、センサーが反応すれば機械が作動しない、途中で止まる仕組みにすることで、事故の可能性を排除した。(作業者がつい、うっかり、たまたま変な動きをしても事故は起きない)
かつて製造現場で盛んに研究、工夫された「フールプルーフ(バカ除け)」などによる改善は、様々な現場で取り組まれ、多くの改善事例とともにエラーのタイプ別に改善方法(やり方・効果・利点/欠点)・法則などを汎用的な知恵として蓄積した。
しかし、様々な改善活動の結果、現場の安全が保障・効率が確保されるようになると、そのような状況が当たり前になる。いつしか改善の必要性も改善活動によって蓄積されてきた知恵も必要がなくなり、改善という有効な知識・経験・法則・手法などは伝承されなくなってしまった。

一方、一般社会、特にサービス産業の様々な現場は、そのような経験的進化をしていない。知識・経験とも皆無といってよい。
通園バスの事例を見ても分かるように、半世紀以上も前の製造現場より、はるかに遅れた状況=人の資質や感覚だけで運用されている。しかも、マニュアル、チェックリストの何たるかといった本質の理解、正しい定着のさせ方も分かっていなければ、人手不足の現場業務はチェック作業やマニュアルによってより複雑で煩雑なものになる。
「究極の改善はなくすことである」というのが基本である。余分なことをしなくてもエラーがない100%の結果が出せることが理想である。
現場の仕組みを変えることなく、様々なモノを押し付ければ現場はかえって混乱し、状況は悪化する。
人手不足、高度な教育訓練が難しぃ、人の資質や動機付けに頼れない、….等々、小規模なサービス産業の現場における条件を満たし、誰でも簡単にでき、楽しみながら業務ができて、100%エラーを起こさない、しかも安価で水平展開しやすい、…など、改善の最も基本となる仕組みを作り上げる必要がある。

3. 幼稚園・小学校で改善を教えよう‼ 
前述のようなおかしなこと、起こるべくして起こるエラーは、一般社会の中に数多くあり、しかも誰も気が付かずに放置されたままである。しかし、モノ・コトに対する見方をきちんと訓練すれば小さな子供でもおかしなことは分かる。
複雑で難しいことが良いのではなく、単純で、誰でもすぐに理解でき、簡単で同じにできることが一番である。
そのような視点を素養として小さなうちから身に着けておくことは有効である。ゲーム感覚で遊びながら習熟していけば小さな子供のうちに身近な「改善」を通して多くのことを身に着けることもできる。何よりも論理的、かつ多角的で「事実を基にモノ・コトの法則性を見出す」という科学的思考のトレーニングにもなる。
「一目見てやり方などの違い、おかしな点が分かり、どのようにすればもっと良くなるかがイメージできる」そんな「素養」を小さなうちから身に着けていけば、社会全体は大きく変わる。
ここで紹介した「フールプルーフ(バカ除け)」「IE(Industrial Engineering)の方法研究にある動作経済の原則」「QC;Quality Control品質管理、QA;Quality Assurance品質保証」など、いまでは誰も知らない・聞いたことがない、あるいは昔聞きかじっただけの人が、何を今更とバカにするような改善の法則・原理原則が、人口減少・高齢化し、サービス化したいまの社会には大いに役に立つことは確かである。
*ただし、身近な事例を用いて簡便な形にアレンジ、翻訳して普及する必要がある。

「温故知新」近代的な工業は様々な歴史の上に成り立っているが、いまの一般社会、特に行政をはじめ、サービス化した産業の現場にはそのような基盤はない。
過去に指導した和洋菓子の製造販売は複数の工場、店舗を持ち、20億円弱の売上、従業員数もパート・アルバイトを含めて100人以上いたが、標準作業・工程分析・工程管理はなく、原価計算方法も間違った考え方で行っていた。人手・時間がかかり、技能によって出来栄えが違う工程にちょっとしたジグを導入しただけで生産性は何倍にも上がり、不良も大きく減少している。
様々な経験・知識を持つ人から見れば信じられないようなことが、日常当たり前のように起こっている。
昔から伝わる「おばあちゃんの知恵袋」には、科学的根拠に基づくものも多く含まれている。「知識ではなく、知恵が重要」と言われて久しいが、急激なデジタル化しとAI活用が叫ばれる現在、知識も知恵も失われてしまえば、多くの人、そして社会全体が進化を止めて退化するしかない。

新型コロナウィルスの流行をきっかけに様々な行政の仕組みのおかしな点が顕在化したが(恐ろしいことに、それがなければ誰も気付かなかった)、マイナンバーカードの紐づけ問題では信じられないようなヒューマンエラーとヒューマンエラーが防げないシステム設計(紐づけ時のやり方)による構造的エラーが顕在化している。現状認識の甘さ、設計思想の問題がある限り、どんなに人数と時間、コストをかけてもまともなものは作れない。
おそらくチョッとでもシステムの知識がある人(情報を専攻する学生ばかりでなく、プログラミング知識のある小さな子供でさえ)なら「何故そんな手順、入力画面にしたのだろう?」と疑問に思うことだろう。
工程分析と各工程の構成要素、それぞれのエラーが混入する可能性(シミュレーション)を洗い出して、一つずつ潰していけば(いわゆる品質工程表)、ほとんどのエラーは防げる。コロナ初期のアプリ開発ではないが、今回のマイナンバーカードも、はじめに多少の時間とコストをかけて現状分析に基づく設計思想(正しい論理に基づく)を明確にしていれば、後からの検証に信じられないほどの膨大な時間と税金を使う無駄は起こらなかったはずである。
知恵を使うことなく、基本、原理原則を守らなければ、結果的に多くの無駄が生じることは多くの事例が示す通りである。分かる人にはやる前から見えているが、分からない人は結局やっても何も分からない。そんな状況はもったいない。

通園バスのエラー防止もマイナンバーカードの紐づけ問題も「フールプルーフ(バカ除け);人はエラーをするから、絶対にエラーが起きないような仕組み」を理解して取り組めば十分防ぐことができる。
いまでは全く聞かれなくなったIE(Industrial Engineering)は、100年以上前から現場で工夫を繰り返し、蓄積されてきた知恵の集大成である。QC;Quality Control品質管理、QA;Quality Assurance品質保証も考え方と手法をうまく応用すれば、特に人が多くかかわるサービス産業の現場では大いに役立つだろう。(過去に遡ればすでに大きく改善された事例も数多くあるから、あとはそれらを応用するだけで改善できる。知っているか否かの違いは大きい)

製造現場を前提とした手法というイメージ(実際にはサービス業でも行われている)を取り払って、日常生活、社会一般の中に広く応用・浸透できる生活の知恵、万人がより良い生活を送るための生活の知恵というように考えれば、小さな子供の時から素養として身に着けておくことは大いに役に立つ。
頻繁に使うものは取り出しやすく仕舞いやすい所に置き、あまり使わないものは高い所などに置くというのは、日常的に主婦が当たり前に行わっていることである。
全てはこのようなモノ・コトの道理、理にかなったことの積み重ね、その延長線上にある。それが様々なケースについて実証的に体系づけられた学問分野があるのではあれば、有効に生かさない手はない。
「無知の知」は全てのスタートになる。水は高い所から低い所に流れると考えれば、低い所に流すべき水は多くの人が知らない・気付かないだけで、どこかに仕舞い忘れたまま放置・忘れられていることを知るべきである。
いまこそ、このような価値ある財産を見直して有効活用する時だろう。

商品を構成する基本機能、二次機能、三次機能

 商品には形があり、モノとして触ることができる。ただし、商品は、昔から経済学で「お客は商品という物を買っているのではなく、商品を通して得られる効用(消費者のニーズを満足させる度合)を買っている」と言われている。
 そのような視点から商品を見ると、商品の持つ「機能」について理解する必要がある。
 機能は、物の持つ有用な性質、はたらき、作用などのことである。具体的には、ライターは「熱を発生する」ことで火をつけることができるし、ハサミは対象とするものを「分離する」ことで切り分けることができる。これが機能である。
 改めて、消費者にとって商品が持つ意味を整理してみると、大きく分けて基本機能、二次機能、三次機能というとらえ方ができる。
◆基本機能 : 基本機能は、機能の中でも「その物が物として存在・成立するために具備する必要のある必要最低限のはたらき」である。
 例えば、ライターの場合、タバコに火をつけることを前提とすれば、少なくとも紙の発火点まで熱を発する必要があるし、ハサミは一般的な用途から考えれば紙や布を切り分けることができる必要がある。また、テレビは音声と映像の両方があって、はじめてテレビとして成り立ち、仮に映像がなければテレビではなく、ラジオになってしまう。
 このように、どんな商品にも「その商品が存在・成立するために必要最低限具備すべきはたらき」があり、それによってはじめて「商品として存在・成立」することができる。
◆二次機能と三次機能
 一方、商品には基本機能以外にも様々な「はたらき」がある。例えば、テレビはチューナーの数によって同時に見られる(或は録画できる)番組の数が決まるし、4Kテレビのように画素数が多くなることで映像を極端にきれいで鮮やかに見ることができるようになる。これらは、テレビがテレビとして成り立つ上で必要となる「音声」と「映像」という条件とはまた違った機能であり、ある意味基本機能を満足した上でさらに付加された機能ということができる。
 このような基本機能以外の副次的機能が物理的に付加されるものを二次機能という。左右どちらの手でも使える利便性を増したハサミ、重ねても膨らまないように針が真っ直ぐ止まるスタープラー(ホチキス)など、様々な分野の商品で二次機能が重要な役割(差別化のキーを握る)を果たすようになっている。
 基本機能、二次機能は製品改善、新製品開発を効果的に行うために生まれた概念であり、「物としての商品」が対象であったが、状況は大きく変わり、「物としての商品」とは別に「意味としての商品」が無視できないほど大きなウェイトを持ちはじめている。ブランドである。
 例えば、ブランド商品と同じ工場で全く同じ仕様でつくられた商品でも、ノーブランドであればブランド商品と同じに評価されることはない。
ブランドは、「物としての商品」とは異なり、消費者の心理の中で固有のイメージ、価値を形成している。消費者は「物としての商品」とは別にブランドというフィルターを通して「意味としての商品」を見るため、全く同じ仕様の商品であったとしてもブランドの有無で価値が全く変わる。
 ブランドの持つイメージ、価値を通して商品を見れば、基本機能、二次機能だけで商品の価値は測れない。有名人が使っている商品、プロスポーツ選手が使っている〇〇モデルのスパイクやグローブ、〇〇仕様の用具類なども全く同様である。
 このように機能には「基本機能」以外に「物としての商品」が持つ二次機能、「意味としての商品」が持つ三次機能があると考えられる。
 これら3つの機能が相互に影響し合いながら「物としての商品」と「意味としての商品」が重なり合い、「商品」が形成される。
「物としての商品」と「意味としての商品」、どちらのウェイトが高いかは商品によってマチマチだが、どちらか一方が欠けても商品として成立することは難しい。
 単に商品を価格だけで評価しているのでは、良い商品を創ることも販売することもできない。消費者の心理、マーケットの変化をよく観察し、理解する必要がある。

新型コロナウイルスと正常性バイアス(normalcy bias)  ⋆bias 偏見、先入観、思い込み

3.11東日本大震災から月日が経ち、正常性バイアス(normalcy bias)という言葉もほとんど聞くことがなくなった。
正常性バイアスは、災害時に被害を大きくする要因として注目されている人間の意識のことである。
もともと正常性バイアスは、一々些細なことに反応しないようにする心の安全装置の一つとも説明されるが、「まだ大丈夫」「まさかそんなことは起こらないだろう」という気持ち=油断、自分に都合の良い解釈が被害を大きくする。
さらに、そこに多数派(集団)同調バイアス(majority synching bias=迷った時に周囲と同じ行動をとる)が加わり、正常性バイアスと同時に起こると一層被害を大きくすることが指摘されている。(要するに、みんながやっているから自分も…という安易な意思決定の仕方である。責任はどこにもないから、何か起こっても誰も悪くない?という、誠に無責任な、ある意味日本人的な状況といえる。)

そこで新型コロナウイルスへの対応である。
誰も小説や映画に出てくるような、こんな状況が実際に目の前で起こるなどとは思わなかった、あるいは今でも思っていないというのが正直なところだろう。
武漢、イタリア、スペイン、ニューヨークなどの惨状をテレビで見ても、まだ日本で実際にそんなことが起こるはずはないと思っている人がたくさんいるはずである。
悲惨な状況にある海外で実際に働く医師たちの取材・警告ビデオもテレビで流れることが増えているが、それをテレビで見ているのは自宅にいる人ばかりだから、関係ないと思っている人たちにその情報はおそらく届いていない。
どんな場合でも言えることだが、大多数の人と外れて行動している人たちは、情報のルートや量、質も異なる。情報が違っていることが認識を違わせているということだろう。

3月の連休の緩みは明らかに政府の間違いといえるが、緊急事態宣言が出ても商店街や潮干狩り、鎌倉などの様子を見れば、多くの人たちが正常性バイアスの真っただ中にいることは確かだろう。
感染し、回復した人たちのインタビューを聞けば、明らかに事態を軽く見ていた、ナメていた、反省しているといった何とも言えない気持ちが伝わってくる。
分からないから、可能な限り、想定できる以上に注意を払うのか、分からないから仕方ない、その時はその時と安易に考えていつも通り行動するのか、その違いは大きい。
ただし、新型コロナウイルスに関しては「分からない」のではなく、もう海外の様子などから多くのことが分かっている。
分からない人たちは、その情報を知らないか、あるいは正常性バイアスの中にいるかのどちらかである。ただし、その人たちはいずれ自分が加害者になる可能性があるということまでは認識していない。(都会を離れ、地方に疎開するという人たちも同じである)
自分の勝手で感染した人と必死になって医療現場で働いて感染した人が、どちらも同じに扱われることは不公平だし、許せないという批判もある。
物事の道理、道義上の問題である。
今一度、状況を冷静に見直す必要があるだろう。

絵(図)を描いて頭を整理・活性化しよう!

モノ・コトを考える時には常に絵を描く(図に描く)ようにしている。理由は「全体を目で見て確認できるようにすること」である。
モノ・コトを考える時、何か拠り所がないと思考が整理できずになかなか前に進まない。目で見て確認できると積み木を組み立てるような形で一つずつでも形づくることができる。さらに複雑なモノ・コトを対象とする時にはジグソーパズルを組み立てるような感じになる。そんな時には一つの図が出来上がるまで何回も書き直し、出来上がるまでに3ヶ月から半年近くかかることも珍しくない。
ただし、このようにして出来上がった図は何十年経っても使える普遍性があるから、3ヶ月から半年という時間はむしろ短いといってもよい。
図に表す、あるいは絵を描いて整理・確認する内容はモノ・コトの関係性、法則性などが中心である。場合によっては、いくつかの手順を経ることで一つの目的を達成するために複数の図を作ることも珍しくない。ある意味、論理的思考と試行錯誤の組み合わせだから、行きつ戻りつ答えに向かって収束していく。
探しているのは原因=結果(特性=要因)、目的=手段、I/P=Process=O/P、時系列、構造/メカニズム、グルーピングなどであり、これらの関係が組み合わさることでいろいろなモノ・コトの真理に近づくことができる。
単に思考の整理というよりは、思考の道具を用いた思考そのものといってもよいだろう。
大切なことは、全体が目で見て確認できること=visibility(可視性、一覧性)を得ながら(具体的に確認しながら)思考を進めることである。
学生にもA3の紙を渡して絵を描くことを推奨している。慣れない人は紙を持て余すが、中学、高校などでトレーニングできている人だとマーカーで色分けするなどして絵の中に要素を整理していく。
筆者が「絵(図)を描いく」ことを推奨するのは、よほど頭がよいか、直感が優れている人でもなければ、モノ・コトを瞬時に整理・理解することなどできないからであり、凡人は絵という道具を使いながら一つ一つ思考を整理するという技術を身に着け、習熟することが大切だと考えているからである。
できれば、小さな子供の時からこのような習慣を身に着けるようにしていくことが大切であるが、残念ながら大学に入学し、初めて経験するという子供は多い。
つまらないことを暗記することが勉強などという勘違いが根強く残っているが、そんなことに時間を費やすのであれば、遊びながらでも勉強(モノ・コトを理解しやすく整理する)の仕方を身につける方がはるかに有意義だろう。
根本的に「教育」の本質を見直すことをしないとグローバル化、デジタル化する時代に全く通用しない子供をたくさんつくり出してしまう。

新型コロナウイルス対策で見えてこないコンサルティングファームの顔

新型コロナウイルス対策に関しては、誰が見てもぎこちないとしか思えない動きが目立つが、冷静になって考えてみると、本来であればプロジェクトマネジメントが得意なはずのコンサルティングファームの顔が全く見えてこない。
今回の新型コロナウイルス対策は当初から「戦争」という言葉を使って表現されていたにもかかわらず、国という総合的なシステムをマネジメントすることに対して、的確な助言・実施指導能力を有するはずのコンサルティングファームの存在が生かされていない。
本来「戦争」ということであれば昔からロジスティックス、後方支援の重要性は認識されているはずである。しかし、現状を見れば通常9割ともいわれる後方支援、マネジメント、現状分析、戦略・戦術策定、人員・物資、各種システムなどの提供、供給が追い付かず前線は疲弊している。
NHKが盛んに過去の新型ウイルスに対する特集をテレビで流しているが、それを見れば何をどうすればよいのかという方向性だけは理解できる。
ただし、以前からパンデミックに対応しているのは公衆衛生や感染症、医療分野の人たちだけという偏った分野の人たちばかりである。
要するに現象が起こっている現場と統計的に処理したマクロデータ、それらと現実、実態としての世界を結び付け、現実の世界をコントロールするための戦略を練る部隊と実施組織が不足しいる。
今回の厚生労働省の新型コロナウイルス感染症対策を見ても分かるように当初から厚生労働省を主幹部署として取り組まれてきた。https://www.kantei.go.jp/jp/singi/novel_coronavirus/taisaku_honbu.html
新型コロナウイルス感染症対策専門家会議のメンバーを見ても医療、感染症分野の専門家ばかりである。
先日、NHKスペシャル新型コロナウイルス「瀬戸際の攻防 感染拡大阻止最前線からの報告」という厚生労働省の対策チームの活動を追ったドキュメントを放送していたが、戦略立案から実際の分析、様々な部署への説明、交渉、記者会見まで、あらゆることを担っているのはまさに医療分野の専門家たちである。
具体的な実施は各都道府県市区町村の保健所や医師会、病院などであるが、彼らのほとんどはこのような事態に対して訓練を受けていない。しかも一つの組織として統制の取れた行動をとることなど不可能な状況にある。スーパーバイザーのような人材、システムが必要になる。
不足するマスク、手袋、防護服、消毒剤、人口呼吸器、ECMOなど、様々な物資とともに医療に関係する人員、訓練された人材の不足が問題化している。
これらは専門家会議の範疇とは言い切れないまさに後方支援、ロジスティックスの問題である。しかもこれらの多くは、事態が悪化する前、そのようなシナリオが描けた時点ですでに様々なリスクを想定し、事前に準備しておくことが可能であったものばかりである。(要するに万が一、こうなった時にはこうするという予測に基づき、あらかじめ準備をしておくことが非常時には重要になる)
どんな形態の店を重点的に閉め、どのように保証するかも同様である。具体的に社会・経済活動に対し、どのように対処するべきか、具体的にどんな問題が起き、それに対してどのような支援が必要になるかは、具体的に企業を指導する経理・会計のプロやコンサルティングファームの方が明らかに詳しいから的確な答えが出る。
資金の不足に関してはクラウドファンディングなどIT系の企業やコンサルティング企業の方が詳しいし、実行する術を数多く持ち合わせている。
現状は、それら我が国の中に埋もれている数多くの様々な資源を生かすような組織的動きをリーダーシップをもって主導するような組織が存在していない。
大阪で防護服の代わりに雨合羽が必要だといえばすぐに10万着もが集まった国である。誰かが良いアイデアを出し、投げかければ形になるのは早い。不足しているのは、新型コロナウイルス対策という一つの目的のもとに整理された「場」である。
個々に見ていけば、マスクをつくりだした企業、消毒薬をつくりだした企業などバラバラに企業独自の動きはあるが、体系的に整理されていないからまとめるとどうなっているかわからないし、流通経路もバラバラである。
マスクに関しては、台湾などが合理的な形で国民に届くような仕組みをつくりあげているのに対し、日本では相変わらず中国人が何回も並んで買いあさっている、お客が販売員に悪態をつく、…などの報道がみられるから、製造の問題もさることながら流通の問題をどうにかすれば少しでも解決に近づけることができる。
SBG孫正義氏が月間3億枚のマスクを確保したように、商品の確保は企業に割り振ることで計算できる。
重要なのは、それを病院や公共性の高い仕事をしている人達にいかに優先して配布するかであり、一般の人たちには公平に届けるかである。
すでに小売店での販売に難しさがあるのであれば、年齢や家族構成、職業、健康状態など個人の特性に応じた優先順位(買う権利)を明確にし、健康保険証などでチェックするなど販売の仕組みも必要になる。
物事には、工程の前後関係があるものと、パラレルで同時並行して進められるものがある。今回の新型コロナウイルスに関する様々なモノ・コトの推移をみると、同時並行でできた後方支援の準備が、事態が進んである程度の結果が見えてから初めて動いたためにどうしても後手後手に回ってしまったということが数多く認められた。
プロジェクトマネジメントでは少なくとも複数のシナリオを描き、最悪の状況に対する準備に関してはあらかじめ準備をしておく。特に前後関係がなく同時並行でできるものはあらかじめ手を付けておく。仮に多少の無駄が生じたとしても、多くの場合その準備は後々無駄にならない。

いずれにせよ、現状は、感染を防ぐという医療分野の専門家チームだけですべてを賄い、あとは放置状態にあるようにしか思えない。医療分野の後方支援もノーコントロール、個々の行政の知恵・工夫に委ねているから、品質がバラけるだけでなく、考える時間や試行錯誤が無駄になる。まさにフランチャイズシステム、チェーンオペレーションのようなシステムが有効になる。しかもまとめてやった方が重複が避けられるばかりでなく、つくる際に必要な人材の質・量も確保しやすい。
体系的に実施レベルでの後方支援が行えるような多分野を総合的に扱える組織、IT、AI、ロボットなど各種デジタル技術やSNS、あるいは本業が止まっても現状に応用できるような技術や設備、人材を有する企業・個人など、現在ある資源をすべて洗い出し、それらを有効活用して状況改善が少しでも進むようなプロジェクトマネジメントができるプロ集団が必要である。
仮に現在ある技術、設備、人材などの資源とそれを現在困っていることに使うためのアイデアが分からなければ、広くSNSで情報やアイデアを募ればよい。
こんな事態に有用な資源を埋もれさせておくなどもったいない。生かす知恵とともに「場」、そしてそれを動かす組織が必要である。

新型コロナウイルスと正常性バイアス(normalcy bias)  ⋆bias 偏見、先入観、思い込み

3.11東日本大震災から月日が経ち、正常性バイアス(normalcy bias)という言葉もほとんど聞くことがなくなった。
正常性バイアスは、災害時に被害を大きくする要因として注目されている人間の意識のことである。
もともと正常性バイアスは、一々些細なことに反応しないようにする心の安全装置の一つとも説明されるが、「まだ大丈夫」「まさかそんなことは起こらないだろう」という気持ち=油断、自分に都合の良い解釈が被害を大きくする。
さらに、そこに多数派(集団)同調バイアス(majority synching bias=迷った時に周囲と同じ行動をとる)が加わり、正常性バイアスと同時に起こると一層被害を大きくすることが指摘されている。(要するに、みんながやっているから自分も…という安易な意思決定の仕方である。責任はどこにもないから、何か起こっても誰も悪くない?という、誠に無責任な、ある意味日本人的な状況といえる。)

そこで新型コロナウイルスへの対応である。
誰も小説や映画に出てくるような、こんな状況が実際に目の前で起こるなどとは思わなかった、あるいは今でも思っていないというのが正直なところだろう。
武漢、イタリア、スペイン、ニューヨークなどの惨状をテレビで見ても、まだ日本で実際にそんなことが起こるはずはないと思っている人がたくさんいるはずである。
悲惨な状況にある海外で実際に働く医師たちの取材・警告ビデオもテレビで流れることが増えているが、それをテレビで見ているのは自宅にいる人ばかりだから、関係ないと思っている人たちにその情報はおそらく届いていない。
どんな場合でも言えることだが、大多数の人と外れて行動している人たちは、情報のルートや量、質も異なる。情報が違っていることが認識を違わせているということだろう。

3月の連休の緩みは明らかに政府の間違いといえるが、緊急事態宣言が出ても商店街や潮干狩り、鎌倉などの様子を見れば、多くの人たちが正常性バイアスの真っただ中にいることは確かだろう。
感染し、回復した人たちのインタビューを聞けば、明らかに事態を軽く見ていた、ナメていた、反省しているといった何とも言えない気持ちが伝わってくる。
分からないから、可能な限り、想定できる以上に注意を払うのか、分からないから仕方ない、その時はその時と安易に考えていつも通り行動するのか、その違いは大きい。
ただし、新型コロナウイルスに関しては「分からない」のではなく、もう海外の様子などから多くのことが分かっている。
分からない人たちは、その情報を知らないか、あるいは正常性バイアスの中にいるかのどちらかである。ただし、その人たちはいずれ自分が加害者になる可能性があるということまでは認識していない。(都会を離れ、地方に疎開するという人たちも同じである)
自分の勝手で感染した人と必死になって医療現場で働いてが感染した人が、どちらも同じに扱われることは不公平だし、許せないという批判もある。
物事の道理、道義上の問題である。
今一度、状況を冷静に見直す必要があるだろう。

働き方改革 ???

新型コロナウィルスの影響からテレワークが注目されている。働き方改革が注目されていたこともあり、これを機会に一気に仕事のやり方が大きく変わるのではという期待もある。ただし、専門家の見方は一時的な避難で終わるのではと、なかなか厳しい。
もともと働き方改革なるものが政府の肝いりでスタートしたこと自体に無理がある。
仕事の仕組み、やり方そのものが変わっていない現状を無視して残業をなくし、休みを取れというから、現場の混乱、聞こえてくる悲鳴は多い。
残業がダメなら家に持ち帰ってやるしかない。有休をとるといって家に持ち帰って仕事をやれば残業代が減る。単なる労働強化でしかないから現場への皺寄せは計り知れない。ブラックな状態が水面下に潜って固定化されればサービス残業よりもひどい状況が起こる。
そもそも仕事といってもルーチン業務から個別対応まである。機械的な処理が可能な定型業務・手続きから、個々の状況に応じて検討し、いろいろと調整しながらつくり上げなければならない仕事まで様々である。
また、同じ部署、同じ名前の業務をやっていても、人によって考え方、優先順位、仕事の手順・やり方が違うから、同じ課題に取り組んでいても結果に行き着くまでのプロセス、工数、アウトプットのレベル・精度などは違う。
自分でコントロールできる仕事もあれば、相手次第でコントロール不能な仕事もある。
もっとも重要な点を無視して、枠組みだけを提示してどうにかしろというのは、いかにもお役所的発想である。
テレビで専門家が「日本の商習慣」の問題を指摘していたが、そればかりでなく、それまで個々人がやりたいようにしかやってこなかった=言い換えれば、まったく標準化されることなく、個人の好き嫌い、得手不得手、慣習などに任されて放任、放置されてきた業務プロセス、やり方、手法などに全く手を付けないまま、枠組みだけをどうにか取り繕うことには、根本的に無理がある。
さらにPCが当たり前の時代になって完全に個々人の業務の手順、進め方、意思決定の仕方がブラックボックス化している状況を考えれば、業務の定義=目的・アウトプット・精度など、業務処理の論理から始まる一連のプロセスを整理しなければ働き方改革なるものの実現は難しい。
そもそも「業務とは何か」という最も基本的な定義が整理できていないケースは多い。
ゴール(目標・方針・アウトプット・精度など)が明確になっていないケースやプロセス・手法などが明確になっていないケースでは個々人の志向、能力、スキルレベルなどに応じてあらゆるモノ・コトがバラけてしまう。
もともと業務自体は目的に対して手段が体系的に位置づけられ、それらが組織に対して割りつけられるという形で体系化されるべきものである。
個々の手続きは、目標に対して情報収集、分析、総合(検討)、評価(基準)、決定(判定基準)、文書化というプロセスを経る。
身近な例が、ある目的に対する情報収集やデータ分析だろう。目的に応じてどんな情報、どんなデータが必要で、それらはどこから入手するか、…などは、たとえ定型的な業務であっても、経験や能力によって変わってしまう。
Excelによるデータ分析一つとっても、どんなデータを用い、どんな加工をして、どんな見方をすれば、状況がよく分かるのか、データ分析に関する経験やスキルレベルで結果は大きく変わる。しかも同じアウトプットを出すのにExcelの処理方法は複数あるから、スキルが高い人と低い人では時間や手間に上下何十倍もの大きな差ができた上に結果や精度にまで影響してくる。スキルレベルの違いが大きく影響する。
分析ばかりでなく、企画の立案などクリエイティブな仕事についてもまったく同様であり、引き出しの多さ、システム的な思考の違いは如何ともしがたい。
特にモジュール化(ブロック玩具のように個々の要素を標準化し、それらを組み合わせることで様々な形をつくり上げる)を前提とする場合と、ゼロから全てをつくり上げるのでは手間、時間の違いは桁違いである。

多くの業務がブラックボックス化している現状を考えると、働き方改革とはいってみても、個々人の仕事のやり方、判断の仕方まで踏み込んで整理することがないまま枠組みに無理やりはめ込んでつじつまを合わせてしまうことになる。
業務コンサルの現場では、使用するフォーマット(使用する情報やデータを指定)や使用データ、処理手続き、見方・検討の仕方など一連の意思決定プロセスに関係する手順と手続きを整理する。
実態の把握をするために、現状使っているフォーマットを集め、手続きの仕方を確認することもあるが、組織内で行われている重複(多くの人が同じ情報収集やデータ分析を重複してやっている)や無意味な手続きを確認する。
多くの場合、個々の業務を現状分析し、改善するよりは、モデルとなる業務システムを当てはめて全てをモデルに合わせてもらうところからスタートした方が明らかに早い。
処理手続きを標準的なものに限定し、そこでのデータ処理にはExcelなどの標準フォーマット(いわゆる計算図表)を設定して配布する。そうすることで使用するデータも標準化でき、ほとんどの処理作業がコピペで済むことになる。
イレギュラーについては、別枠で対応し、必要に応じて標準的なシステムを修正してそれを標準モデルとすればよい。
とりあえず、標準的なこと以外はやらないようにすれば、すべてが単純化できるし、データ処理もExcelなどの標準フォーマットへのデータのコピペで結果を導くことができる。データの読み方もマニュアル化すれば、個々に考えて判断する必要がなくなるから短時間で済み、精度も安定する。
実は個々に教育をするよりは、全員に標準的な仕組みを踏襲させるようにした方が全体のレベルを上げるのに早いだけでなく、一度に多くの人を一定レベルにまで引き上げる教育効果もある。
本質は業務システムに関する設計思想であり、個々の能力、特性を生かそうとするのであれば、いかに無駄な作業を省いて簡素化するかである。もちろん、情報システムのレベル、精度も重要であるが、それも業務全体に対する設計思想で決まる。
人の能力や機械の性能が企業の財産であることを考えれば、それらを生かすも殺すも設計思想次第である。
働き方改革をきっかけにいま一度根本から見直すことも必要だろう。

クラスター?

クラスターという言葉が今年の流行語大賞にノミネートされそうな感じであるが、業界によって、その意味はずいぶんと違っている。
一般に理工系の人間であれば、クラスターと言えばクラスター分析となるだろう。
もともと集団とか群といった意味であるが、クラスター分析では似た特性のグループに分けて統計処理をするし、筆者はクラシフィケーションという言葉で商品特性による分類概念をマネジメントや商品構成に使っている。
そこで一つの疑問が残る。
実は特性の異なる大きな集団はそのままで状況をとらえるよりは、特性の似たものを集めていくつかのグループに分け、それぞれのグループの特性に合わせて対処した方が効率が良い。
ある意味、マネジメントの基本だが、それ以前に科学的方法の鉄則、キホンのキともいえる方法である。
もう何十年も学生には一番初めの授業で教えているが、「科学とは、現実の全体、或いはその特殊な領域、または諸側面に対する系統的認識 (広辞苑)」とある。言い換えると「 事実を正しく知る 」 「 事実の相互関係から仕組や法則性を見出す 」ということになる。
具体的には、たくさんあるものから似たものを集めてグループ化し、グループに共通する特性(仕組みや法則性)を見出してモデル化する、というのが科学的な方法の手順である。

なぜ、いまこんな話をするかというと、新型コロナウイルスへの対応で大阪方式なるものが注目されている。
単純に言えば、救急対応と同じで、はじめの段階で症状の重さや緊急性で層別(グループ分け)し、重症患者に対して必要となるベッドや医療整備を優先して確保しようということである。
ある意味、マネジメントの基本であるし、メーカーの工場などで生産管理や工程管理、品質管理をやっていれば当たり前に行われていることである。
それを前提に考えれば、医療の現場、このようなリスクマネジメントの現場ではマネジメントや科学的方法の最も基本となる原理原則が認識されていないことになる。
東日本大震災の時の原発事故ではじめて分かった原発設備の予備電源もそうであったが、科学的なマネジメントの世界では信じられないようなことが平気で行われている。
予備電源が同じ建屋の中になかったということが指摘されていたが、そんなことが問題ではなく、電気が使えなくなった時の冷却に同じ電気という原理で対応していたことに驚きを覚えたのである。あの時は結局電気がどうこうなったとしても通電できなかったということか後になって分かったが、おそらくチョットでも科学的なマネジメントをかじった人間であれば、冷却という目的に対して、電気という原理が使えなくなった場合の予備は別の原理を考えるはずである。例えば水であったり、化学反応で低温を実現するような全く異なる原理である。
リスクマネジメントという以前の段階で、科学的ではないし、マネジメントの基本からも大きく外れている。
恐ろしいのは、科学者と名のつく人たちが専門分野ばかりやっていて、マネジメントの基本については全くの無知であることだろう。政治家や官僚も同様なのかもしれない。

新型コロナウイルスに関する広報などについても、様々に指摘されているように日本に不利な情報ばかりが海外に報道され、イメージが定着している。
一度出来上がってしまったマイナスイメージを払しょくすることが如何に難しいかということが理解できていれば、どのような広報活動をすればよいかは自ずとわかるはずである。
いろいろな面でマネジメントの重要性が問われるべきだろう。

リスクマネジメント…?????

世の中、大変なことになっているが、こんな時にも「リスクマネジメント」という言葉が全く聞こえてこない。
ネットで調べるとリスクマネジメントと名の付く学界や協会もあるが、こんな時にもマスコミでは名前が聞かれないのは残念である。
何十年も前から団体や任意の資格をつくるなど動きはあったようだが、ネットを調べて出てくるのは、高額の通信研修の勧誘など怪しげな話ばかりである。

 本来、このような時にこそリスクマネジメントの本領発揮だと思うのだが、あまりにも範囲が広すぎて専門家が足りないのか、あるいは日本という国ではリスクマネジメントという概念に対して意識が弱いのか、枝葉末節の話ばかりで全体としてどのような思想、手法でプロジェクトマネジメントを行うのかという議論が見えてこない。
 元大阪府知事橋下徹氏が、自身の経験を踏まえて、このような状況が見えない場合は取り合えず最悪の場合を想定して多少大きく押さえておき、後になって状況が見えてきたら修正すればよいと言っていたが、医療ばかりでなく、外交、経済など総合的にマップを書いてバランスを見ながらシナリオづくりをしていくような手法が見えてこない。
 国会もへ理屈ばかりで危機的状況とは思えないやり取りに終始しているから、いつまで経っても実効が上がる結論が出せないでいる
 そもそもこんな非常時に根拠を示せ、説明しろということが平気で言えるセンスは国を滅ぼしかねない。「2番じゃダメですか!」はこんな緊急時にも発揮されてしまった。
 いまさら、後手後手に回っている、根拠を示せといっても何の解決にもならず、むしろ対応する動きを停止させ、すべてが前に進めずに状況を悪化させるばかりである。
 緊急時に的確な指示のもとに動けない現場は困るし、イライラするどころか諦めの境地にある。
 現状を見れば公衆衛生と医療現場の基準の違いが混乱を引き起こしている。オリンピックや外交、強いては経済などとは異なる価値観が支配するからいつまで経っても全体像が見えてこない。
 盛んに指摘されているように海外に対するアピール不足も相対的に状況を悪化させている。全て揃ってワンセットという理解がないのは致命的である。

 いずれにせよ、リスクマネジメントという概念が机上論だけで終わっていては、本当の危機的状況には対処できない。
 実務レベルでの体系的な具体論と技術者などからなる実行組織、そして何よりもこのような事態に際して全体を統括し、マネージできるプロフェッショナルな頭脳集団が必要である。
 大きな組織はいらない。必要なことは専門家に聞けばよいから個々の詳細な専門知識も不要である。
 本当の意味で必要なのは、様々な情報を総合的にまとめ上げて、全体としてのリスクやチャンスなど様々な可能性を整理してシナリオをつくり上げることができるプロフェッショナルな頭脳集団である。
 時間との勝負で重要なことは、時系列で個々の要素を把握、それらを総合し、様々な可能性、チャンスとリスクを想定したシナリオを時間軸に基づいて作成することである。
 意思決定者に分かりやすい資料を作成して提示し、説明、助言など、意思決定のサポートをすることも重要な仕事である。それとともに現場が的確に動けるためのマネジメントも必要になる。
 ある意味、表に立つ役者を動かすのは、裏で真剣勝負をする黒子であるが、それがバラバラ、あるいは不在であれば、意思決定者は専門ではない個々の情報、意見に振り回され、結論を出さなければならなくなる。
 典型的な例が意思決定、実行の遅れだし、400億円ともいわれるマスクだろう。

 現状を考えると、今の政府、官僚組織では緊急時には何事も意思決定できないし、実行できないことがよく分かる。それに加えて野党が机上論で足を引っ張るからさらに状況は悪化する。
 いまさら縦割り組織を嘆いてみても意味がない。
 そうであれば、政府に対して、全体像といろいろな可能性を基にしたシナリオを提示し、選択肢を提言できるプロフェッショナルな頭脳集団、政府が意思決定できるように状況を整理して的確に助言できるプロフェッショナルな頭脳集団を設置する必要である。
 平和ボケは怖い。   2020年3月5日

売上を上げるのは簡単!難しくせずに売上を上げよう!-1

◆売上を上げるのは簡単!難しくせずに売上を上げよう!
どんな企業でも売上と粗利率を上げることには苦労している。特に客数の落ち込みは売上に大きく影響するから、多少客単価を上げてカバーしたとしても、継続することは難しい。同様に、売上が減少しているからといって粗利率を上げようとしても簡単ではない。52週で売上と粗利率の関係を見ると分かるが、基本的に売上の高い週は粗利率が高く、売上の低い週は粗利率が低いといった傾向がハッキリと見てとれる。
もちろん、売価還元法であれば仕入れ次第で粗利率は変動するし、チラシや値下げの仕方によっても変動するから、それらイレギュラーを除外した時の話である。
このようなトレンドを考えれば、基本的にプロパー中心に売上を上げれば自然と粗利率は上がる。
机上の計算だけで客数が落ちたから客単価を上げる、売上が落ちたから粗利率を上げるというのは簡単だが、実際の売場にある法則性を見れば、そう簡単にはいかない。
時としては、現場を無視した空論が混乱を招くこともある。というか多いのかもしれない。
そんな状況にあれば、いろいろと考えすぎてしまうから、かえってモノ・コトを難しくして分からなくしてしまう。
多くのケースで、結果に結びついているのは簡単なことを徹底した時であり、決して複雑で難しいことではない。
◆無駄な商品をカットして、必要な商品のフェイスを広げよう
食品スーパーなど、日常的な商品を扱う業態で、なぜかアイテム数が増える傾向が見られる。
理屈は単純で、アイテム数が多いことが品揃えが良いという勘違い、アイテム数が少ないと競合他社に負けるという不安心理(科学的ではない) がほとんどである。
しかし、考えてみればアイテム数と品揃えの良さの間に必ずしも相関関係はない。同様に、売上との間にも相関関係があるとは言えない。
売上と直結しているのは商品構成と売場での表現であり、商品構成は品揃えする個々の商品を全体としてバランスさせることであるし、売場表現は商品の特性=お客の買い方(商品の売れ方)に見合った的確な陳列ができるか否かで決まる。
価格が重要な商品をディスプレーしてもしょうがないし、イメージで買う商品に大きな価格訴求POPを付けて山積みすればイメージはだいなしになる。同様に必要な時にしか買わない商品を日替わりやタイムサービスに使ってもお客の反応は鈍いだろう。
問題は、必要な商品、欲しい商品がリーズナブルな価格(消費者が買いたい、買ってもよいと考えている納得価格)で置いてあるか否かであるし、商品の特性(お客の買い方)に応じた売り方ができているか否かである。

もう一つは、買いやすさである。
勘違いをしている人は、食品スーパーのポジションがよく分かっていない。
食品、特に調味料などは特定のものを使い続ける傾向が強い。言い換えれば、品揃えの良さはアイテム数の多さではなく、自分が使い続けている、自分にとって重要な銘柄の商品が価格を含めて買いやすい状態で売っているか否かである。
アイテム数が多いと自ずとフェイス数、最大陳列量が減り、欠品の機会が増える。店側は補充頻度が増え、お客は探しにくくなるから、誰にとっても良いことはない。
そもそも商品にはいろいろなタイプがあるのに、そのタイプ分けも明確にできていないから、どんな商品でも同じに扱ってしまう。
常備し、定期的に買う商品/その都度必要になった時に買う商品、代替えが利かずその商品(銘柄)でなければだめな商品/他の商品でも代替えが利く商品、いつも同じ銘柄を買う指名度の高い商品/いろいろな銘柄を試して同じ商品はあまり買わない商品、お客が基準とする一定範囲の価格でないと買わない商品/価格に関係なく必要に応じて買う商品、いろいろな商品から選びたい商品/買うのが特定商品に決まっている商品、….等々。
言い出したらキリがないほど、商品には様々なタイプがあり、それぞれの特性に応じて売れ方=消費者の買い方は大きく変わる。
そんなこともわからずに何でも商品をたくさん集めればよいというのは、昔、ホームセンターが自嘲の念を込めて「品集め」と言っていたのとまったく同じである。
他の業態でのことだから学習効果はないのかもしれないが、小売業界全体として考えれば無駄が多い。
とりあえず、商品の売れ方=買い方の特性を理解して、その特性に応じた対応をすれば、無駄な品集めを止めて必要な商品に集中することができる。
「競合店には並びますよ」というメーカー営業の悪魔のささやきにも簡単には耳を貸さないことである。
メーカーにとっては納品=売上であるが、小売りにとっては納品=在庫の増加であって、必ずしもそれで売上が上がるかどうかは分からない。
新たに入れる商品が売上にプラスに働けばよいが、既存商品にとって代わるだけならその商品が売れる代わりに他の既存商品の売上が落ちる。
アイテムが増えた分だけ在庫が増えるから商品回転率は落ちる。棚割を作り、バイヤーが自らその棚割を崩すことにもなる。
小売店頭における商品構成、売場づくり、売上や粗利率、商品回転率、そして個々の商品の特性=お客の買い方、…など、基本的な関係さえ理解していれば無駄なことをやらなくても自ずと売上は上がる。売上が上がれば粗利率も上がるからこんなに良いことはない。
何事も原理原則、物事の道理に従って単純であることが一番である。